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宮崎駿監督引退会見 一問一答

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宮崎駿監督一問一答

『風立ちぬ』を最後に長編映画からの引退を表明した宮崎駿監督が6日、都内で記者会見を行い、引退の理由や経緯、そして今後について語った。

ありがとう!宮崎駿監督 引退会見 一問一答 

Q:子どもたちへのメッセージはあるか?

宮崎:……そんなにかっこいいことはいえません。何かの機会があったらわたしたちが作ってきた映画を観てくだされば、何か伝わってくれるかもしれません。それに留めさせてください。

Q:長編の監督から引退という認識でいいのか? また、今後の予定は?

宮崎:ここ(公式引退の辞)にわれながらよく書いたなと思ったんですけど、「ぼくは自由です」と書いたので、やらない自由もあるんです。ただ、車が運転できるかぎりは毎日アトリエに行こうと思っています。それで、やりたくなったものや、やれるものはやろうと思います。まだ休息を取らないといけない時期なので、休むうちに何かわかってくる。ここで約束するとたぶんたいてい破ることになる。そういうことでご理解ください。

Q:『風の谷のナウシカ』の続編を作る予定はあるのか?

宮崎:ありません。

Q:韓国のファンに一言。また、ゼロ戦をテーマにしたことで巻き起こっている議論について、どういう考えを持っているのか?

宮崎:映画を観ていただければわかると思っていますので、いろいろな言葉にだまされないで、今度の映画も観ていただけたら良いなと思います。

 いろいろな国の人がわたしたちの作品を観てくださるのは非常にうれしいと思っています。それと同時に『風立ちぬ』の作品のモチーフが日本の軍国主義が破滅に向かっていく時代を舞台にしていますので、いろいろな疑問はわたしの家族からも自分からもスタッフからも出ました。それにどう答えるかということで、映画を作りました。ですので、映画を観ていただければわかると思います。映画を観ないで論じても始まらないと思うので、ぜひお金を払って観ていただけるとうれしいです。

Q:今後、ジブリの若手監督の作品に監修やアドバイザーといった形で関与するつもりはあるのか?

宮崎:ありません。

Q:今回の引退は本気とのことですが、今までとは何が一番違うのか?

宮崎:公式引退の辞に書かれていますけれども、『風立ちぬ』というのは『崖の上のポニョ』から5年かかっている。その間、映画を作り続けていたわけではなく、シナリオを書いたり、道楽のための漫画を描いたり、あるいは美術館の短編の監督をやるとかしましたが、やはり5年はかかるんです。

 次の作品を考えるとなると、この年齢ですから5年では済まないでしょう。そうすると、次は6年かかるか、7年かかるか。あと3か月もすれば73歳になりますから。7年かかると80歳になってしまうんです。僕はこの前、文藝春秋の元編集長だった半藤一利さんという方とお話ししてですね、83歳でしたが、背筋が伸びて頭がはっきりしていて、本当にいい先輩がいると思った。僕も83歳になって、こうなっていたいなと思ったんです。それで、僕は「あと10年は仕事を続けます」と言っているだけでして。続けられたらいいなと思っているのですが、それでも今までの延長線上には自分の仕事がないと思います。僕の長編アニメーションの時代ははっきり終わった。もしやりたいと思っても、それは年寄りの世迷い言であると片付けようと決めています。

Q:引退を鈴木プロデューサーと正式に決めたのはいつか?

宮崎:よく覚えていないんですが、「鈴木さん、もうだめだ」と僕が言ったら、鈴木さんが「そうですか」と。それはもう何度も繰り返したことなんで、そのときに鈴木さんが信用したかはわかりませんが、ジブリを立ち上げたときに、こんなに長くやるつもりがなかったのは確かです。ですから、何度も引き時なんじゃないかとか、もうやめようという話は二人でやってきました。だから、今回は次に7年かかるかもしれないという僕の言葉に、鈴木さんもリアリティーを感じたんだと思います。

鈴木:僕もですね、正確に覚えているわけじゃないんですが、風立ちぬの初号があったのが6月19日だったんですよ。たぶん、その直後だったんじゃないかと思うんですよね。宮さんからそういうお話があったとき、確かにこれまでもいろいろな作品で「これが最後だ」「これが最後の作品だと思ってやっている」というのはあったんですけれどもね。今回は本気だなというのを感じざるを得ませんでした。

 というのも僕自身が漫画「ナウシカ」の連載開始から数えると今年がちょうど30年目にあたるんですけれども、その間、本当にいろいろありました。これ以上やるのはよくないんじゃないかとか、やめようか、とか、やめまいか、とか……僕も何というのか、それまで30年間ずっと緊張の糸があったと思うんですね。その緊張の糸がですね、宮さんにそういうことを言われたときに揺れた(切れた)んですよ。僕自身が変な言い方ですけど、ほっとするところがあったんです。僕が若いときだったらそれを止めさせようといろんな気持ちも働いたと思うんですけど、自分の気持ちの中で「本当にご苦労様でした」という気分が湧いた。

 ただ、僕自身は何しろ引き続き『かぐや姫の物語』っていう映画を公開しなきゃいけないんで。その途切れかかった糸を縛って、現在は仕事をしている最中なんですけれども。それで実は、細かいことまで話すと、それを皆さん(マスコミ)にお伝えする前に、いつね、どうやって伝えようかというのは話し合いました。その中で皆さんにお伝えする前に、まず伝えなきゃいけないのはスタジオで働くスタッフだと思ったんですよ。それをいつやって、皆さんにいつ伝えるか。ちょうど『風立ちぬ』の映画の公開というのがあったので、映画の公開前に「引退」だなんていったら話がややこしくなると思ったんですよ。だから、映画が公開されて、落ち着いた時期、社内では8月5日にそのことに伝えました。そして、公開が一段落した時期にみなさんにも発表できるかなと。そうなると9月の頭ですよね。そんなふうに考えたことは確かです。

Q:引退後は海外のファンと交流する予定はあるのか?

宮崎:ジブリ美術館の展示その他についてはわたしは関わらせていただきたいと思っているので、ボランティアという形になるかもしれませんが。自分も展示品になってしまうかもしれませんので。ぜひ美術館にお越しいただけるとうれしい。

Q:「風立ちぬ」が最後になるという予感はあったのか?

鈴木:宮崎駿監督、宮さんという人と付き合って、彼の性格からして一つ思っていたことは、ずっと作り続けるんじゃないかなと。それはどういうことかというと、死んでしまうまで、その間際まで作り続けるんじゃないか。すべてをやるというのは不可能かもしれないけれど、何らかの形で映画を作り続ける。

 そうした予感の一方で、宮さんという人はですね、35年付き合ってきて常々感じていたんですけど、別のことをやろうと思ったときに自分で一旦それを決める。そして、宣言するっていう人なんですよ。だから、もしかしたら、これを最後にそれを決めて、宣言して、別のことに取り掛かる。そのどっちかだろうとは、正直思っていましたね。

 『風立ちぬ』っていう作品を作っていて、それが完成を迎え、その直後にさっき言っていたような話が出てきたんですけど、それはですね、僕の予想の中に入っていましたので、僕は素直に受け止めることができたんだと思います。

Q:宮崎監督は引き際の美学などはありますか?

宮崎:映画を作るのに死にもの狂いで、どの後どうするかは考えていなかったですね。それよりも「映画はできるのか」とか「これは映画になるのか」とか「作るに値するものなのか」とか、そういうものの方が自分にとっては重圧でした。

Q:最も思い入れのある作品はなんでしょうか? また、全ての作品に共通するメッセージがありますか?

宮崎:一番自分の中にトゲのように残っているのは『ハウルの動く城』です。ゲームの世界なんですよ。でもそれをゲームではなくドラマにしようとした結果、本当に格闘しました。まあ、スタートが間違っていたと思うんですけど。自分の立てた企画なので仕方ありません。

 僕は児童文学の多くの作品に影響を受けて、この世界に入った人間ですので。児童文学にもいろいろありますけれども、基本的に、子どもたちに「この世は生きるに値するんだ」というのを伝えるのが自分たちの仕事の根幹になければいけないと思っていました。それは今も変わっていません。

Q:イタリアを舞台にした作品を作っていますが、イタリアは好きですか?

宮崎:僕はイタリアは好きです。まとまっていないところも含めて、好きです。友人もいるし、食べ物はおいしいし、女性は美しいし。ちょっとおっかないかなというところもありますが、イタリアは好きです。

Q:ジブリ美術館の館長をやるつもりはないのでしょうか?

宮崎:館長になって、入り口のところで「いらっしゃいませ」と言うよりは、展示されているものがもう10年前のものになっているので、随分色あせたり書き直したりしないといけないものがありまして、それを僕はやりたいと思っているんです。これは本当に自分が筆で書いたりペンで書いたりしないといけないものなので、それは時間ができたらやりたい、ずっとやらなければいけないと思ってきたことなので、それをやりたいんです。 美術館の展示品っていうのは毎日きちんと掃除をしているはずなのに、いつのまにか色あせていく。その部屋に入ったときに全体がくすんで見えるんです。それで、一箇所をきらきらさせると、そのコーナーがぱっとよみがえって、不思議なことにたちまち子どもたちが群がるようになるっていうのがわかったんです。ですから、美術館を生き生きさせていくには、ずっと手をかけ続けていかないといけない。それをできるだけやりたいと思っています。

Q:短編を監督する予定はあるのか?

宮崎:引退の辞に書きましたが、「ぼくは自由です」。やってもやらなくても自由なので、今はそちらに頭を使うことはしません。前からやりたいとおもっていることはあるのですが、それはアニメーションではありません。

Q:スタジオジブリは今後どうなる?

鈴木:僕は現在、『かぐや姫の物語』、そして来年の企画に関わっています。僕も、宮さんよりは結構若いんですが、年齢が65歳でございまして、このジジイがいったいどこまで関わるのかという問題があるかと思うんですけれど、実は今後のジブリの問題というのは今、ジブリにいる人たちの問題だと思うんですよ。だから、その人たちがどう考えるのか。そのことによって、決まるのだと僕は思っています。

宮崎;ジブリの今後についてはですね、やっと上の重しがなくなるんだから、「こういうのをやらせろ」っていう声が若いスタッフからいろいろ鈴木さんに届くことを僕は願っています。本当に。それがないときは鈴木さんが何をやってもだめです。僕らは30歳のときにも40歳のときにも、「やっていいんだったら何でもやるぞ」っていう企画を持っていましたが、それを持っているかに懸かっていると思います。鈴木さんはそれに門前払いを食らわせる人ではありません。今後のことはそういった意欲や希望や能力にかかっているのだと思います。

Q:長編でやってみたかった企画などはありますか?

宮崎;山ほどあるんですけど、やってはいけない理由があったのでやらなかったので、ここで述べようもない。それほどの形にはなっていないものばかりです。やめると言いながら、「こういうのをやったらどうなんだろう」というのは、しょっちゅう頭を出たり入ったりしますけれども、人に語るものではありませんので、ご勘弁ください。

Q:具体的に今後はどうするのか?

宮崎:やりたいことがあるんですけど、やれなかったらみっともないので、それが何なのかは言いません。

Q:アニメ以外の違う形でいろんなことを発信していく予定はあるか?

宮崎:文化人になりたくないんです。僕は町工場のおやじでして、それは貫きたいと思っています。だから発信しようとかそういうことを考えない。文化人ではありません。

Q:当面は休息を取られるんですか?

宮崎:僕の休息は他人から見ると休息に見えないかもしれないような休息でして、好き勝手なことをしていると、大変でもそれが休息になるってことも随分あるんです。ごろっと寝転がっているとかえってくたびれるだけなので。

 夢としては、できないと思いますが、東山道を歩いて、京都まで行けたらいいと思います。途中で行き倒れる可能性が強いですが。たぶん実現不可能だと思います。

Q:震災や原発事故は『風立ちぬ』に影響に与えたか?

宮崎:『風立ちぬ』の構想は震災や原発事故に影響されていません。それはこの映画を始めるときに、初めからあったものです。どこかで話しましたけど、「時代に追いつかれて、追い抜かれた」という感じを映画を作っている最中に思いました。

Q:「時代に追いつかれ、追い抜かれた」という点が引退と関係があるのか?

宮崎:関係ありません。アニメーションの監督が何をやっているのかはみなさんよくわからないと思うのですが、アニメーションの監督といってもみんなそれぞれです。僕はアニメーター出身なので、描かないといけないんです。描かないと表現できないんです。どういうことかというと、メガネを外して、こうやって(と前のめりになる)書かないといけないんです。これを延々とやっていかないといけないんですけど、どんなに体調を整えて節制していても、それを集中していく時間が年々減っていくことは確実なんです。それは実感しています。

 僕は「ポニョ」のときと比べると机を離れるのが30分早くなっています。この次は1時間早くなるでしょう。その物理的な、加齢によって発生する問題はどうすることもできませんし、いらだっても仕方ありません。では違うやり方をすればいいんじゃないかという意見があると思いますが、あったらとっくにやっていますから、できません。というわけで、僕は僕のやり方で、自分の時代を貫くしかないと思ったので、長編アニメーションは無理だと判断したのです。

Q:現在の日本のアニメーションをどう見るか?

宮崎:誠に申し訳ないのですが、僕が仕事をやるということは、映画もテレビも観ないという生活をすることです。ラジオだけ朝ちょっと聞きますし、新聞はぱらぱらと読みますが、他は驚くほど見ていないんです。ですから、ジャパニメーションというのがどこにあるのかということすらわからないんです。予断で話すわけにもいきませんから、それにたいする発言権はないと思います。

 みなさんが僕と同じ年令になって僕と同じデスクワークをしていたらわかると思いますが、そういう気を散らすことは一切できないんです。参考試写っていう形でスタジオの試写室で何本か映画をやってくれるんですが、大抵途中で出てきます。仕事をやったほうがいいと。そういう不遜な人間なので、まあ、今が潮時だなと思います。

Q:あえて引退宣言をした理由は?

宮崎:引退宣言をしようと思ったんじゃないんです。僕はスタッフに「もう辞めます」と言いました。その結果、プロデューサーから「取材の申し入れがあるけどどうするか? いいちいち受けていたら大変ですよ」という話がありまして、「じゃあ僕のアトリエでやりましょうか」と言ったら、ちょっと人数が多くて入りきらないと。で、スタジオの会議室でやろうとしたら、そこも難しい。それで、ここになっちゃった。そうするとですね、これは何かがないといけないというので「公式引退の辞」を書いたんです。それをプロデューサーに見せたら「いいじゃない」となったので、コピーすることになって、こういうことになりました。こんなイベントをやる気はさらさらなかったんです。それをご理解ください。

Q:商業的な成功と芸術的な評価を得た宮崎作品のスタイル、そしてそれが他の日本映画に与えた影響は何か?

鈴木:言い訳かもしれないんですけど、そういうことはあまり考えないようにしています。どうしてかというと、そういう物の見方をすると、目の前の仕事ができなくなるんですよ。宮崎駿作品に関わったのは『ナウシカ』からなんですけど、そこから約30年間ずっと走り続けてきて、それと同時に過去の作品を振り返ったことはなかった。それがたぶん、仕事を現役で続けるっていうことだと僕は思っていた。

 どういうスタイルで、その映画を作っているのか。ふと感想として思うことはあるけど、なるだけ封じることにしている。また、自分たちが関わってきた作品がどういうふうな影響を与えたかについても。僕はできるだけ考えないようにしてきた。

宮崎:まったく僕も考えていませんでした。採算、分岐点にたどり着いたと聞いたら「よかった!」。それで終わりです。

Q:1963年に東映動画に入社して半世紀が経ちますが、つらかったことは?

宮崎:つらかったのはスケジュールで、どの作品でもつらかったです。終わりまでわかっている作品は作ったことがないんです。見通しがない作品ばかりなので、それは毎回つらかった。つらかったとしか言いようがないんですけど。

 絵コンテっていう作業があるんですけど、僕は月刊誌のように絵コンテを出すんですよ。スタッフはこの映画がどこにたどりつくのかを知らないままやっている。よく我慢してやっていましたね。でも、僕にとっては、2年とか1年半とか、そういう時間の間に考えることに意味がありました。同時に上がってくるカットを見て、ああでもないこうでもないといじくっていくうちに、映画の内容についての理解が深まっていくのも事実なので、それによって先のことが考えられるという、あんまり生産性には寄与しない方式でやってきました。でもそれはつらいんですよ。50年のうちに何年そうだったのかわかりませんが、そういう仕事でした。

Q:監督になってよかったと思うことは?

宮崎:監督になってよかったと思ったことは一度もありませんが、アニメーターになってよかったと思ったことは何度かあります。

Q:具体的には?

宮崎:アニメーターというのは、本当に何でもないカットが描けたとか、うまく風が描けたとか、うまく水の処理ができたとか、光の処理がうまくできたとかそういうことで2~3日は満足できるんですよ。短くても、2時間は。監督は最後に判決を待たないといけないでしょ? これは胃に良くないんです。僕は最後までアニメーターだったと思っていますが、アニメーターという職業は自分に合っている良い職業だと思っています。

Q:それでも監督をやってきた理由は何でしょう?

宮崎:簡単な理由でして、高畑勲と僕は会社が組ませたんじゃないんです。僕らは労働組合の事務所で会って、ずいぶん長い間話をしました。その結果、一緒に仕事をやるまでに、どれほど話をしたかわからないぐらい、ありとあらゆることについて話をしてきました。それで、自分がそれなりの力を持って彼と一緒にできたのは「アルプスの少女ハイジ」が最初だったと思うんですけど、そのときに打ち合わせが全く必要のない人間になったんです、相互に。こういうものをやるって出してきたときに何を考えているかわかる人間になっちゃったんです。ですから、監督というのはスケジュールが遅れると会社に怒られる。高畑勲は始末書をいくらでも書いていましたけど。そういうのを見るにつけ、僕は監督をやりたくない、やる必要がない、僕は映像をやっていればいいんだと思っていました。

 でも、ある時期がきて、お前一人で演出やれといわれたとき、本当に途方に暮れたんです。音楽家と打ち合わせといわれても、何を打ち合わせしたらいいかわからない。初めから監督や演出をやろうという人間ではなかったんです。その戸惑いは『風立ちぬ』までひきずっていたと僕は今でも思いますけどね。映画の演出をやろうとやってきた高畑さんの修行と、絵を描けばいいんだとやってきた僕のものは全然違うものだったんです。でも、それについてはプロデューサーが補佐してくれました。テレビも観ない映画も観ないという人間にはどういうタレントがいるとか全然わからないんです。ですから、チームというか腐れ縁があったおかげで、やってこれたんだと本当に思います。決然と立って、一人で孤高を保っているという監督ではありませんでした。わからないものはわからないんだと、そういう人間として最後までやれたんだと思います。

Q:ラストシーンのセリフを変えたという長編最後の『風立ちぬ』は悔いのないものになったのか?

宮崎:『風立ちぬ』の最後については本当に煩悶しましたけれど、なぜ煩悶したかというと、絵コンテを挙げないと制作デスクのサンキチという女の子がほんとにおそろしいんです。とにかく絵コンテを形にしないと、どうにもならない。いろいろペンディング事項はあるけど、とにかく形にしようと形にしたのが追い詰められた実態です。やっぱりこれはダメだなと思っても、絵は変えられないけど、セリフは変えられますから。だから、僕はそこで仕切り直しをしたんです。

Q:これまでの長編アニメのキャリアを振り返ってみて。

宮崎:その総括はしていません。自分が手抜きしたとかいう感覚があったらつらいとは思うんですけど、とにかくたどりつけるところまではたどりついたと思っていたので、終わった後はその映画を観ませんでした。だめなところはわかっているし、いつのまにか直っているということも絶対にないんで、振り向かないようにやっていました。そして、同じ事はしないつもりでやってきました。

Q:スタジオジブリを設立してから現在まで、日本の社会はどのように変わってきたと思いますか?

宮崎:ジブリを作ったときの日本のことを思い出すとですね。浮かれ騒いでいる時代だと思います。経済大国になって、日本はすごいんだってね。それについては頭にきていました。そうでないと『ナウシカ』なんて作りません。でも『ナウシカ』『ラピュタ』『トトロ』『魔女の宅急便』っていうのは、経済はにぎやかなんだけど、心の方はどうなだろうと思って、作った作品なんです。でも、89年にソ連が崩壊して、日本のバブルがはじけて……今までの自分たちが作ってきた作品の延長線上にはもう作れないという時期が来たんです。そうしたときに僕は豚を主人公にしたり、高畑監督はタヌキを主人公にしたりして、切り抜けた。

Q:どんな70代にしたいですか?

宮崎:なるべく背筋を伸ばして、きちっと生きていきたい。

Q:好きな作品や監督はありますか?

宮崎:僕は今の作品を全然観ていないので。申し訳ないんですけど。

Q:『風立ちぬ』のキャスティングについて。

宮崎:毎日テレビを観ていたり、その渦中にいる方は気が付かないと思うんですが、僕は映画もテレビも観ていない。風立ちぬをやっている間中よみがえってきたのは、モノクロ時代の日本の映画です。昭和三十年以前の作品ですよね。それと比べて、今のタレントさんたちのしゃべり方を聞くと、ギャップに驚きます。何という存在感のなさだろう、と。逆に庵野(秀明)もスティーブン・アルパートも存在感だけです。かなり乱暴だったと思うんですけど、その方が僕は映画にぴったりだったと思いました。でも他のキャストがダメだったとは思いません。ヒロインをやってくださった方(瀧本美織)はみるみるうちに菜穂子になってくださって、愕然としました。

Q:今はやせている気がするのですが、健康状態はいかがですか?

宮崎:僕は63.2キロです。50年前にアニメーターになったときは57キロでした。それが60キロを越えたのは結婚してからです。一時は70キロを越えました。そのころの自分の写真をみると、醜い豚のようだとつらいんです。映画を作っていくために体調を整える必要があるので、外食をやめました。朝ご飯を食べて、昼は家内の作った弁当を食べて、夜はうちに帰ってから食べます。そしたら、こういう体重になったんです。だから女房の協力のおかげなのか陰謀なのかわからないんですけど、これでいいんだと思います。そして、僕はスタートの、57キロになって死ねればいいと思っています。

 健康はいろいろ問題はあります。でも、とても心配してくれる方々がいて、よってたかっていろいろやらされているので、それに従ってやっていこうと思っているので、何とかなるんじゃないかと思います。

Q:「熱風」で憲法改憲について語ったのはなぜですか?

宮崎:熱風から取材を受けまして、自分の思っていることを率直に語りました。もう少しちゃんと考えて、きちんとしゃべればよかったんですが、そうしたらああいう記事になりました。訂正する気もありません。それを発信し続けるかといわれると、僕は文化人じゃありませんので、その範囲で留めていようと思います。

Q:「熱風」の取材を受けようと思った理由は?

宮崎:鈴木プロデューサーが新聞で憲法について語ったんですよ。そしたらネットで鈴木さんのところにいろいろ脅迫が届くようになった。それを聞いて、鈴木さんに冗談で「電車に乗るとぶすっとやられる」という話があって、こっちが知らん顔しているわけにはいかないので僕が発言して、ついでに高畠監督にも発言してもらって、三人いれば的が定まらないだろうみたいな気持ちで発言しました。これが本当のところです。

Q:『風立ちぬ』にある「力を尽くして生きろ。持ち時間は10年だ」という言葉について。

宮崎:僕の尊敬している堀田善衛さんという作家が最晩年で、旧約聖書の伝道の書について、エッセイで書いてくださったんです。その中に「汝の手に堪うることは力を尽してこれをなせ」という言葉があります。

 そして、10年というのは僕が考えたことではなくて、絵を描く仕事をしているとだいたい38歳くらいに限界がきて、そこで死ぬやつがいるから気をつけろと僕は先生に言われたんです。僕は18歳のときから絵の修行を始めたので、そういうことをぼんやりと思って「10年」とつい言ったんです。実際に監督になる前、アニメーションというのは世界の秘密をのぞき見ることだと思いました。風や人の動きやいろいろな表情やまなざしや筋肉の動きそのものに世界の秘密があると思える仕事なんです。それがわかった瞬間に、自分の選んだ仕事が奥深くて、やるに値すると思った時期があるんですよね。それが僕にとっての10年だと思い当たるところはあります。

 でも、これからの10年についてはあっという間に終わるだろうと思っています。美術館作ってからももう10年以上がたっている。ついこないだと思っていたのに。なので、これからはもっと早いと思います。

Q:引退についての奥さんの反応は?

宮崎:家内には「こういう引退の話をした」というふうに言いました。「お弁当は今後もお願いします」と言ったら、「ふん」と言われましたけど。常日頃から、「この歳になってまだ毎日弁当を作っている人はいない」と言われているので、「誠に申し訳ありませんがよろしくお願いします」と。そこまで丁寧に言ったかは覚えていませんが。というのも、外食が向かない人間に改造されてしまったんです。ずっと前にしょっちゅう行っていたラーメン屋に行ったら、あまりのしょっぱさにびっくりました。

Q:「子どもたちに世界は生きるに値するのだと伝える」ことについて。

宮崎:僕は自分の好きな好きなイギリスの児童文学作家で、ロバート・ウェストールという男がいまして、その人が書いたいくつかの作品の中に本当に自分の考えなければいけないことが充満しているというか、満ちているんです。その中でこういうセリフがあるんですよね。「この世はひどいものである。君はこの世を生きていくには気立てが良すぎる」。それは少しも褒め言葉ではないんですよ。でも本当に胸を打たれました。つまり、僕が発信しているのではなくて、僕はいっぱい、いろんなものを受け取っているんだと思います。多くの読み物とか昔観た映画とか、そういうものから受け取っているので、僕が考案したものではない。繰り返し、繰り返し、「この世は生きるに値するんだ」と言い伝えられ、それを僕も受け継いでいるのだと思っています。

Q:引退発表の場所とタイミングについて

鈴木:ベネチアのコンペの出品要請は直前のことだったんですよ。引退発表についてのスケジュールは前から決めていたんですが、そこにベネチアが入ってきた。それで、宮さんには外国に友人が多いじゃないですか。そうしたらベネチアっていうところで引退を発表すれば、言葉を選ばないといけないんですが、一度に発表できるなと。まず引退のことを発表して、その上で記者会見を開く。そのほうが混乱が少ないだろうと。ただ、ベネチアが重なった。それだけのことなんです。

Q:『風立ちぬ』に込めたメッセージはあるのか?

宮崎:自分のメッセージを込めようと思って、映画って作れないんですよね。自分がこっちに進もうとするのは何か意味があるんでしょうけど、意識的につかまえることはできないんです。つかまえられるところに入っていこうとすると大抵ろくでもないことになるので、自分でよくわからないところに入っていくしかないんです。でも、最後に映画は風呂敷をたたまないといけない。未完で終われれば、こんなに楽なことはないんですけど。いくら長くても二時間が限度ですから。それが実態ですから、セリフとして「生きねば。」というメッセージがあったとしても、それは鈴木さんが『ナウシカ』の最後の言葉を引っ張り出してきて、ポスターに僕の書いた『風立ちぬ』っていう字よりも大きく書いた。そういうことになって、僕が「生きねば。」って叫んだように思われていますが、僕は叫んでいません。そういうことも含めて、宣伝は鈴木さんの仕事ですから、僕は全部を任せるしかありません。

 また、映画というのはたまりたまったものでできているものですから、自分の中で抱えているもので映画を作ろうと思ったことはありません。

Q:年齢以外で作品の発表ペースが遅くなった要因はありますか?

宮崎:昔は1年単位で作ったこともあります。最初の『ナウシカ』も『ラピュタ』も『トトロ』も『魔女の宅急便』も演出をやる前に溜まっていた材料がありまして、出口があったらバッと出て行くという状態になっていたんです。その後は何を作るか探さなきゃいけないという時代になったんですね。それで、だんだん時間がかかるようになったんだと思いますね。

 最初の『ルパン三世 カリオストロの城』は4か月半で作りました。一生懸命やって、寝る時間も削ってギリギリまでやったら、4か月半でできるんですよ。けど、そのときはスタッフも若くて、同時に長編アニメーションやる機会は一生にに一度あるかどうか……みたいなアニメーターの群れがいてですね、非常に献身的にやったからです。それをずっと要求し続けるのは無理なんです。年もとるし、世帯もできるし……「わたしを選ぶのか、仕事を選ぶのか」みたいなことを言われたりね。今度の映画では、その両方を選んだ堀越二郎を描きましたけど。

 そういうわけで、どうしても時間がかかるようになったんです。また、以前のように1日12時間も14時間も机に向かっていても耐えられるような状態ではなくなりましたよね。実際、今は7時間が限度だと思います。打ち合わせとかは僕にとっては仕事ではないんですよ。机に向かって描くのが仕事で、その時間を何時間取れるか。この年齢になると、どうにもならなくなる瞬間が何度も来るっていうね。その結果、何をしたかというと、鉛筆をぱっとおいたら帰っちゃう。片付けて帰るとか、この仕事は今日でキリをつけようとかそういうのを諦めたんです。それでももう限界ギリギリだったので、これ以上続けるのは無理だと。じゃあそれを他の人に任せればいいというのは、僕の仕事のやり方を理解できない人の言い方ですから、それは聞いても仕方ないですよね。それができるなら、とっくの昔にやっています。

(取材:シネマトゥデイ編集部 福田麗)

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