大日本帝国陸軍は、1937年に神奈川県川崎市生田の丘陵地に実験場を設立。当初は電波を用いた兵器を専門にしていたが、太平洋戦争の開戦と拡大に伴って研究棟と所員を増やし、その後登戸研究所と呼ばれる。やがて、カメラを仕込んだライターにかばん、紫外線を当てることで文字が読める秘密インキ、殺人光線や敵国に向けて飛ばす風船爆弾などの研究開発にも着手。どこか自由な雰囲気が漂っていた研究所だったが、その裏では実験中の所員死亡事故が発生し、中国へ出張しての生体実験も行われていた。
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