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アジアにドキュメンタリー映画が生まれにくいワケ

山形国際映画祭30年の軌跡

山形国際ドキュメンタリー映画祭30年の軌跡 連載:第5回(全8回)

 山形国際ドキュメンタリー映画祭(以下、YIDFF)はアジア初のドキュメンタリーに特化した映画祭として1989年にスタートした。しかしインターナショナル・コンペティション部門にアジアの作品はなかった。いや、YIDFFが求める作品がなく、選べなかったのだ。そこで“なぜアジアにドキュメンタリー映画が生まれてこないのか”をテーマにしたシンポジウム「アジアの映画作家は発言する」が開催され、5時間以上にわたって議論された。それから30年。状況に変化はあったのだろうか。(取材・文・写真:中山治美、写真:山形国際ドキュメンタリー映画祭)

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求めているドキュメンタリーがない

アジアの映画作家は発言する
「アジアの映画作家は発言する アジア・シンポジウム1989」(写真:山形国際ドキュメンタリー映画祭)

 第1回(1989)の上映本数は80本。うち今も多くの人に愛されているイグナシオ・アグエロ監督のチリ映画『100人の子供たちが列車を待っている』(1988)など15本がインターナショナル・コンペティション部門で上映された。その中にはクリスティン・ロイドフィット手塚義治監督の日英合作映画『家族写真』(1989)も選出されているが、「応募されたものは、文化映画や広報映画などが多く、こちらの求めているドキュメンタリー映画はほとんどなく、上映することができなかった」(YIDFF発行のカタログ「アジアの映画作家は発言する アジア・シンポジウム1989」より)と運営側の評価。

 つまり当時はまだ欧米のようなドキュメンタリーの定義も市場も確立しておらず、多くのアジアの国では強力な政治、財閥、大企業の元での製作となるため、とても困難な状況だったのだ。

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共闘を誓ったサイン
シンポジウム「アジアの映画作家は発言する」参加監督たちによる共闘を誓ったサイン。(YIDFF発行のカタログ「アジアの映画作家は発言する」より)

 そこで1989年10月14日、山形市中央公民館の大会議場でシンポジウムが開催された。マレーシアの映画作家スティーブン・テオのコーディネートで、YIDFFの立ち上げ人の一人である『三里塚』シリーズの小川紳介監督が司会を担い、フィリピン、台湾、タイ、韓国から総勢9人がシンポジウムに駆けつけたのだ。だがその中には欠席者がいた。その理由が何より、当時のアジアにおける映画製作の状況を物語っていた。

共闘を誓った文章
シンポジウム「アジアの映画作家は発言する」後、フィリピンのキドラット・タヒミック監督が起草したアジアのドキュメンタリストの共闘を誓った文章。(YIDFF発行のカタログ「アジアの映画作家は発言する」より)

各国の当局による厳しい検閲や弾圧

 中国のティエン・チュアンチュアン監督とチェン・カイコー監督に声をかけるも、ビザ取得に必要な国家広播電影電視総局からの許可を得られなかった。韓国の映像制作集団「チャンサンコ・メ」のホン・ギソン監督は、脚本で参加した光州事件をテーマにした映画『五月 夢の国』(1988)を検閲を受けずに上映したため、韓国の警察から告訴される事態に。その裁判が長引いていたため、共同で脚本を手がけたコン・スチャンのみ登壇した。

 シンポジウム内でもたびたび議論に上がった、国や権力者の不都合なことを封じ込めようとする検閲という呪縛。それゆえにもう少し自由に制作でき、劇場公開も見込まれることから生活の心配もなくなる劇映画へと基盤を移そうとする流れ。5時間でも議論が尽くされなかったこれらの問題は第2回(1991)でも引き続きシンポジウムが開催され、さらにアジアのドキュメンタリーの活性や発掘を目的とした第3回(1993)のアジア・プログラムの設立(現・アジア千波万波)へとつながっていった。

モハマド・シルワーニ監督
『イラン式料理本』(2010)で市民賞とコミュニティシネマ賞をダブル受賞するも引退宣言をしたモハマド・シルワーニ監督。(撮影:中山治美)

 しかしわれわれは、幾度となく検閲やメディア統制に苦しめられているアジアのドキュメンタリストたちの姿を見ることとなる。第12回(2011)で市民賞とコミュニティシネマ賞をダブル受賞した『イラン式料理本』(2010)のモハマド・シルワーニ監督は、受賞会見で突然監督引退宣言をした。

 当時のイランはマフムード・アフマディーネジャド大統領政権下で、政府の許可のない映画制作および映画祭出品者への弾圧が厳しかった。シルワーニ監督も旧作が1本も上映されていない状態で、にもかかわらず海外で上映して、皮肉にも受賞で注目を浴びてしまったために「イランに戻ってからの身の安全が確保できない」と先手を打っての行動だった。

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製作費は映画祭の賞金、基金や私財から捻出

ワン・ウォ監督
『映画のない映画祭』のワン・ウォ監督。(撮影:中山治美)

 第15回(2017)では中国当局の圧力によって中止に追いやられたインディペンデント映画祭の一部始終を描いた『映画のない映画祭』(2015)が上映され、ワン・ウォ監督が「国外の映画祭の中には、検閲を受けた作品しか受け付けないところもある。今後中国の自主映画監督たちの表現の場がどんどん少なくなってしまう」と窮状を訴えた。

チャン・ジーウン監督
第15回(2017)に『乱世備忘 僕らの雨傘運動』(2016)で小川紳介賞を受賞したチャン・ジーウン監督。(撮影:中山治美)

 また同年、小川紳介賞を受賞したのはチャン・ジーウン監督『乱世備忘 僕らの雨傘運動』(2016)だが、香港の混乱は言わずもがなだ。

 それでも1989年に、ドキュメンタリー不毛の地であったアジアに、先人たちによってまかれた種は少しずつ成長している。その一人が、今年も上映時間8時間15分の新作『死霊魂』(2018)を引っさげてインターナショナル・コンペティション部門に帰ってくる中国のワン・ビン監督だ。

ワン・ビン監督
第8回(2003)に『鉄西区』(2003)でインターナショナル・コンペティション部門に参加したワン・ビン監督。(写真:山形国際ドキュメンタリー映画祭)

 ワン監督は中国の“不都合な真実を”撮り続けており、これまで一度も自国の会社から製作資金を得たことはない。廃れゆく中国の国営工場にカメラを据えた『鉄西区』(2003)は友人や知人から資金を借りて製作し、第8回(2003)で大賞のロバート&フランシス・フラハティ賞を受賞して得た賞金300万円で借金を返済したという逸話を持つ。

 続いて、反右派闘争や文化大革命で粛清された元新聞記者による自分史『鳳鳴(フォン・ミン)-中国の記憶』(2007)で再び第10回(2007)のロバート&フランシス・フラハティ賞(賞金200万円)を獲得し、貧困の中たくましく生きる姉妹に密着した『三姉妹 雲南の子』(2012)では第69回ベネチア国際映画祭オリゾンティ部門でグランプリを獲得。

 それらの勢力的な活動が評価され、2017年にはオランダの映画博物館「アイ・フィルムミュージアム」が主催するアイ・アート&フィルム賞を受賞し、賞金2万5,000ポンド(当時のレートで約350万円)を獲得している。

ワン・ビン監督
『鉄西区』(2003)で大賞のロバート&フランシス・フラハティ賞を受賞したワン・ビン監督。(写真:山形国際ドキュメンタリー映画祭)

 この度、インタビューに応じたワン監督は、現在の製作状況について「中国は特殊な国情もあり、個人企業がごくごくわずかな出資をしている程度で、ほとんどありません。利潤の追求が主の中国映画界では、わたしの作品の配給で収入を得ることはできないと思われているので、通常の商業ベースの出資はありません。ですから、すべての経費を全部自分で賄わなければならないのですが、その製作費を支えているのが『鉄西区』の劇場公開以来関係が深まったフランスやさまざまなアート関係の機関や基金による出資です。さらに世界各国の映画祭で受賞した時の賞金が大きなウエイトを占めています。おそらくその数と額は、他の監督と比べても群を抜いていると思います」と言う。

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YIDFFから影響を受けて成長

『死霊魂』
第16回(2019)のインターナショナル・コンペティション部門に帰ってきたワン・ビン監督『死霊魂』。上映時間は495分。(写真提供:山形国際ドキュメンタリー映画祭)

 ワン監督の初長編劇映画『無言歌』(2010)のベースとなった、反右派闘争で粛清され、ゴビ砂漠にある再教育収容所に送られた証言集『死霊魂』も準備段階はすべて自己資金だが、その後フランス・スイスから資金を得て完成までこぎつけた。

 YIDFFの常連であるワン監督は同映画祭について「その役割と重要性は計り知れず、受賞したことでわたしの人生は大きく変わりました。現在のような製作方法を続けてこられたのもYIDFFに参加して賞をいただいたことからスタートできたからでした 。創作者であるわたしにとってYIDFFは成長の場であり、強力な後押しをしてくれた場です」と語る。

ドゥウィ・スジャンティ・ヌグラヘニ監督
地元の公的機関による助成システムの改革を促進したインドネシアのドゥウィ・スジャンティ・ヌグラヘニ監督。(撮影:中山治美)

 またスハルト政権下に厳しい検閲があったインドネシアでも新たな動きがある。第13回(2013)に『デノクとガレン』(2012)でアジア千波万波部門に参加したインドネシアのドゥウィ・スジャンティ・ヌグラヘニ監督は地元のジョグジャカルタ特別州に掛け合い、王族の知人などコネが幅を利かせ、かつ伝統文化のみが対象となっていた助成システムの見直しを提案。2015年に見事地方行政を動かし、ドキュメンタリーも対象としたオープンなシステムへと変わり、ドゥウィ監督自身も助成作品を審査するキュレーターとして関わっているという。立ちはだかる困難を前に、ただ手をこまねいているだけではない。YIDFFのような場所で情報を共有することで、解決策を見出す術を身につけたようだ。

 1998年に創設された台湾国際ドキュメンタリー映画祭のプログラム・ディレクターのウッド・リンは、YIDFFに影響を受けたことについて「独立精神の重要性」だという。さらに「映画をキュレーションし、上映することで、わたしたち自身の社会と歴史に関心を持ち、再考することの大切さを学びました。YIDFFは創設以来、巨匠から新鋭までアジアのパワフルなドキュメンタリーを公開するための重要なプラットフォームを構築したと思います」とコメントを寄せている。

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【懐かしアルバム】ティエン・チュアンチュアン監督

ティエン・チュアンチュアン監督
第3回(1993)のインターナショナル・コンペティション部門の審査員を務めたティエン・チュアンチュアン監督(右)。(写真:山形国際ドキュメンタリー映画祭)

 第1回(1989)のアジア・シンポジウムに出席できなかったティエン・チュアンチュアン監督だが、第3回(1993)にはインターナショナル・コンペティション部門の審査員として参加した。

 両親も文化大革命時代に弾圧を受けたが、自身も文革を描いた映画『青い凧』(1993)を製作したことで10年間、映画製作を禁じられた時期がある。

 苦難の道を歩み続けて熟成した渋い顔は俳優業に生かされ、シルヴィア・チャン監督『妻の愛、娘の時』(2017)では主演も務めたシルヴィアの夫役に抜てき。亡父の遺骨問題で神経とがらせる妻を、側から見守る心優しき夫を好演した。

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