シネマトゥデイ

シネマトゥデイ
.

香港映画界の巨匠ツイ・ハーク監督を直撃!アメリカで映画を学んだ時から現在までを振り返る!-ニューヨーク・アジア映画祭(1/2)

香港映画界の巨匠ツイ・ハーク監督を直撃!アメリカで映画を学んだ時から現在までを振り返る!-ニューヨーク・アジア映画祭
ツイ・ハーク監督

 現在開かれているニューヨーク・アジア映画祭で、生涯功労賞を獲得した香港映画界の巨匠ツイ・ハーク監督が、過去の作品やハリウッドへの挑戦、そしてワイヤーアクションなどについて語った。

 映画『男たちの挽歌』や『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』をプロデュースし、監督としては映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』シリーズや『ツイン・ドラゴン』などでメガホンを取ってきたツイ・ハーク監督が映画界に入ったきっかけから現在までを話した。

 まず、香港ではなくアメリカのテキサスで映画を学んだ理由について「僕が学生だった当時は、香港にはちゃんとした映画を学べる学校のようなものが設立されていなかった。そこで日本も含め、ヨーロッパやアメリカなどの映画を学べる学校を候補に入れていたが、最終的には自分の財政的な問題で、自分を受け入れてくれるテキサスの大学に進学することになったんだよ」と明かした。

 それでは、なぜアメリカにとどまらず、香港に戻って仕事を始めたのか。「実は、テキサスの大学で学んだ後、ニューヨークに4、5年住んでいたんだ。そのときは、ドキュメンタリー映画を製作すると同時に、チャイナタウンにある中国人のローカル新聞でもレポーターの仕事もしていたんだ(笑)。だから当時は、監督というよりもニュースのレポーターとしてのビジョンしかなかったんだよ。ところが、75~76年にかけてギャング・オブ・フォー(四人組=中国文化大革命を主導した江青、張春橋、姚文元、王洪文の四人)が逮捕されたときに、こちらのニューヨークにはその情報がちゃんと入ってこなかったんだ。そこで、もっと詳しいことを知りたいと思って香港に戻ったんだ」と答えた。ところが一度香港に戻ってはきたが、自分の思うようにはいかなかったようだ。「戻ってみたら仕事に空きがあったのが、唯一テレビドラマだけだったんだ……。だから、まずはテレビドラマを手掛けることから始まり、そこで信頼を得て、やがて武峡映画のシリーズで監督することになっていったんだ」とずっとアクション映画にこだわってきた監督ではなかったこと明かした。

 ツイ・ハークの妻であるナンサン・シーとプロダクション、フィルム・ワークショップを80年代に設立したことについて「このフィルム・ワークショップの会社名の由来は、香港フィルム・カルチャー・センターで僕が講演していたときのイベントからそのままこの会社名を付けたんだ。僕がこの会社を設立した1984年は、映画製作について少し模索していた時期で、それまで製作していたシネマ・シティと制作過程で意見が分かれることがあった。そこで、議論するよりもむしろ、指示されずに制作したいと思ったところから、映画『上海ブルース』を僕のプロダクションで手掛けることになったんだ」と語った。


【関連情報】

楽天市場

ブログなどをご利用の方は以下のURLをトラックバックURLとして指定してください。

[PR]
おすすめ特集
映画アクセスランキング
  • Loading...
»もっとランキングを見る«
楽天市場
スポンサード リンク
  1. 記事
  2. 2011年
  3. 7月
  4. 17日
  5. 香港映画界の巨匠ツイ・ハーク監督を直撃!アメリカで映画を学んだ時から現在までを振り返る!-ニューヨーク・アジア映画祭