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東映元社長・高岩淡さん死去 姪・檀ふみ「骨の随まで映画人でした」

檀ふみさんと亡くなった高岩淡さん(2003年 第26回日本アカデミー賞)※東映提供
檀ふみさんと亡くなった高岩淡さん(2003年 第26回日本アカデミー賞)※東映提供

 東映の元代表取締役社長・高岩淡さんが、10月28日に肺炎のため京都市内の病院で亡くなったと、11月1日、同社が発表した。享年91歳。葬儀は家族葬としてすでに執り行われ、後日お別れの会を予定。同社では、喪主である長男・高岩礼氏の意思により「ご香典、ご供花、ご供物は固く辞退申し上げます」としている。

 高岩さんは1930年11月13日生まれの福岡県出身。九州大学経済学部卒業後、1954年に東映入社、京都撮影所に配属される。1971年に取締役、京都撮影所長に就任し、常務取締役、専務取締役を経て、1990年には東京撮影所担当を兼務。1993年に代表取締役社長、2002年に代表取締役会長に就任した。

 京都撮影所時代は、進行主任として『海賊八幡船(ばはんせん)』(1960)などの大川橋蔵さん主演作、1958年から始まった『一心太助』シリーズなどの中村錦之助さん主演作に携わる。製作者として『柳生一族の陰謀』『青春の門』『火宅の人』『極道の妻(おんな)たち』『わが愛の譜 滝廉太郎物語』『鉄道員(ぽっぽや)』『男たちの大和/YAMATO』ほか数多くの作品に名を連ねた。

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 1975年には国内初の映画テーマパークとなった東映太秦映画村を開村し、東映京都スタジオ代表取締役社長就任。日本アカデミー賞協会の会長も長期にわたり務めた。

高岩淡さん(1993年5月撮影)※東映提供

 作家の檀一雄さんは異父兄。女優の檀ふみさんは姪にあたる。訃報を受けて檀さんは「骨の随まで映画人でした。晩年は、自分が関わった時代劇をテレビで見つけては懐かしがっていたそうです。私が俳優となってからは、どこへ行っても誰と会っても、『高岩淡さんの姪御さん!?』『お世話になりました』『素晴らしい方ね』と、笑顔で迎えられました。そんな叔父を持ったことを、誇りに思っております。いくら感謝しても、感謝しきれません」とコメントを発表。どのほかにも、岩下志麻さん、中井貴一さんなど数多くの映画人からコメントが寄せられている。各コメントは以下の通り。(編集部・入倉功一)

岩下志麻

謹んでお悔やみ申し上げます。
高岩淡さんには、『極道の妻たち』シリーズで、大変お世話になりました。
怒ったお顔を拝見したことがなく、いつも穏やかで優しい、心の温かい方でした。
心からご冥福をお祈り申し上げます。

中井貴一

又、日本映画の昭和史、変遷を知る先輩が、空の向こう側へ旅立たれました。
高岩さんとは『激動の1750日』という、任侠映画の撮影の折、ご一緒させて頂き、仕事以外も撮影中何度も京都の美味しいお店、そして、粋な遊びも教えて頂きました。
先輩の死に接する度、後は頼むよ‥と、大きなバトンを手渡されたような気がいたします。
激動の昭和という時代から、平成、令和と、90歳までの生涯を貫かれた高岩さん、お見事です。心より、ご冥福をお祈り致します。

名取裕子

義理と人情にあつく、映画界、映画にかかわる人達を分け隔てなく大切にする真の映画人だったと思います。
暖かい大きな心に守られて、作品を作れたこと、楽しい仕事が出来ましたこと
海外の映画祭にご一緒していろんな国の方と心通わせたこと 
その場にご一緒できて全て感謝しかありません。
大きな声と弾ける笑顔と豪快な食欲と、そして何より繊細な優しさを持ち続けた愛の人であることを忘れません。
これからはみんなの心の中で、生き続けてくださいね。
ご冥福をお祈りします。

松坂慶子

高岩淡さまが、東映京都撮影所所長でいらっしゃった時の作品『青春の門』で、たえを演じさせていただきましたのが、初めての出会いでした。
スケールの大きな、そして温かいお人柄で、皆んなに愛される撮影所の太陽のような方でした。
私がしゅんとしてた時、「慶子ちゃん、困った時は...笑ったらええんや」と、励まして背中を押してくださったことをあの笑顔とともに懐かしく思い出します。
お別れは悲しいですが、胸がいっぱいですが、皆んなから愛された高岩淡さまのご冥福を心からお祈り申し上げます。

松平健

「暴れん坊将軍」が始まった時、高岩さんは東映京都撮影所の所長でした。まだ撮影所に慣れない私を気に懸けてくださり、「暴れん坊」のソフトボールチームを作って試合をしたときには応援に駆けつけてくださったこともありました。明るく優しく豪快だった高岩さん、その温かな笑顔でいつも励ましていただきました。
高岩さん、ほんとうに有難うございました。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。

三田佳子

私のデビュー当時から、いつも何くれとなく気を配り、面倒を見てくださる「京都の兄」の様な方でした。
大きな声で場を仕切りながら、誰にも明るく気さくに接していらした。
映画祭で何度もご一緒した中国への旅が、忘れられない思い出です。
ご冥福を心よりお祈り致します。

富司純子

九州男児で器の大きい方でした。
ロケに行っても、スタッフや俳優の事を一番に考えてくださって、17歳でデビューして26歳まで東映京都撮影所でお仕事をさせていただき、お世話になり、とても幸せでした。
生意気にも「淡ちゃん」と呼ばせていただき、「純子ちゃん」とかわいがっていただきました。
笑顔が忘れられません。
どうぞ、安らかにお眠りください。

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