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『カート・コバーン アバウト・ア・サン』 デラックス版~カート・コバーン~

今週のクローズアップ

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今週のクローズアップ /カート・コバーン

1994年4月5日に、人気絶頂のさなかに自ら命を絶った“ニルヴァーナ”のボーカル、カート・コバーン。ジャーナリストのマイケル・アゼラッドが行った25時間におよぶインタビューの取材テープを基に作られたドキュメンタリー映画『カート・コバーン アバウト・ア・サン デラックス版』が、1月25日に発売されます。1990年代のロック・アイコン “ニルヴァーナ”のカート・コバーンが走り抜けた27年間を今一度おさらいしましょう!

ROCK

 カート率いる“ニルヴァーナ”のデビューアルバムは、1989年にインディーレーベルから発売された「ブリーチ」。その 2年後、メジャー第1弾アルバム「ネバー・マインド」が発売されました。アルバムに収録された、「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」がヘビーローテーションとして流され、その荒々しいサウンドに若者たちは熱狂しました。アルバムは発売1か月でゴールド・ディスクに。 さらに1か月後、プラチナ・ディスクになりました。こうして、“ニルヴァーナ”は、アメリカ中に大“グランジ・ロック(“ニルヴァーナ”発祥の地でもある、シアトルを中心に一大ムーブメントとなった。グランジ=汚れた、薄汚い)”旋風を巻き起こしたのです。


 しかし、メジャーでの成功に大きな違和感を持っていたカートは、ドラッグとアルコールにおぼれるようになりました。そんな中で発売されたアルバム「イン・ユーテロ」は、「レイプ・ミー」(私をレイプして)という楽曲のように、周囲の状況に追い詰められたカートの精神状態がそのまま現れたような仕上がりに……。そして、この「In Utero」が、“ニルヴァーナ”最後のアルバムとなったのでした。


 1990年代、人々に強い印象を与えたバンドはたくさんありました。しかし“ニルヴァーナ”は、27歳のカートの衝撃的な死で伝説のバンドとなったのです。

 

(C) FilmMagic
伝説のロックバンド、ニルヴァーナ

DRUG

 カートはもともと商業的なロックが大嫌いな性格。そのためガンズ・アンド・ローゼスや、ボン・ジョヴィといったロックバンドを、常々批判し続けていました。特にガンズ・アンド・ローゼスとは楽屋で殴り合いのけんかを始めるほどの犬猿の仲でした。しかし、「ネバー・マインド」を発表後、気付けば自分自身が“メジャー”という道の上に乗っかってしまっていたカート。いつの間にか、自分自身が“ロックスター”になってしまっていたのです。アンダーグラウンドで、退廃的なロックが理想だった彼にとって、メジャーになって、スター扱いされる環境は苦痛そのもの。幼少のときに、親が離婚。学生時代は、不登校……。孤独な日々を送ってきたカートにとって突然の環境の変化は、不安を募らせるものでした。


 ストレスやプレッシャーから逃れるために、カートはドラッグ、そしてアルコールにおぼれていったのです。不安、そして長く患っていた原因不明の胃痛を和らげるために、ドラッグの量はどんどん増えていき、コカイン、ヘロインという恐ろしい薬物は、次第にカートの精神、そして肉体をむしばんでいったのでした。

 

(C) FilmMagic
メンバーと記念写真! カート、完全に……!

LOVE

 1991年、カートは、スパッシング・パンプキンズのビリー・コーガンの元カノだったコートニー・ラヴと交際スタート。ちょうど、「ネバー・マインド」が大ヒットし、その成功と反比例するようにカートの精神状態がもろくなっていたときに、そばにいたのは恋人のコートニーだったのです。


 アルバムの大ヒットに合わせてドラッグの過剰摂取(オーバードーズ=O.D)で、病院に搬送されたカート。この日は皮肉にも、“ニルヴァーナ”のアルバム売り上げが全米チャート1位を記録し、みんなが祝杯に酔いしれていた夜でした。人気とともに、神経衰弱に陥るカート。そんなカートをそばで支えながら、コートニーはこの事件の約1か月後にハワイでカートと結婚。8月には、娘のフランシスが産まれます。ちなみに、この出産のときもカートはコートニーと同じ病院に薬物のリハビリ治療のために入院していたそうです。後に有名になった、カートと産まれたての赤ん坊の写真に見られる、うつろなカートの眼差しは、薬物の禁断症状と戦っていた最中での記念写真だったことを物語っているのです。


(C) WireImage
パパ全開中のカート!

DEATH

 1994年4月5日、カートはシアトルの自宅でショットガンで自らの頭を撃ち抜いて自殺。彼の死は、多くのファンに衝撃を与えました。長年患っていたそううつ病、そしてスターとしてのプレッシャーと戦い続けた彼は、薬物におぼれ、 “死”を選択したのでした。彼の苦悩の深さは、自殺後に出てきた紙切れ1枚にびっしりと書かれた“遺書”に現れていました。その内容は、“ステージで精いっぱい楽しんでいるようにファンに見せかけて演奏する自分”と“ステージを、まったく楽しめない、孤独な自分自身”とのギャップに苦しみ抜いているロックスターの悲しい真実でした。「音楽を作ることも、聴くことにも興奮しなくなった」「ステージに上がる前に、タイムカードを押したい……」遺書の中にある言葉の節々から、カートがミュージシャンである前に“ロックスター”という仕事を必死にこなそうとしていた姿が浮かび上がります。観客に対しての罪悪感、自分に対しての憤り、すべてのものに耐えられなくなり死の1か月前に、2度も自殺を図っていたカート。その苦しみは計り知れません。


 カートの死を語るとき、死の原因と挙げられるのは妻のコートニーです。しかし、カートの遺書の最後には、こんな切ない言葉がありました。


 「そのまま進み続けてくれ、コートニー、自分のため、そしてフランシスのために。僕がいない方がずっと幸せな彼女の人生のために……。君たちを愛してるよ、愛してる」

(C) Getty Images
「消え去るより、燃え尽きた方がいいんだ」~カート・コバーンの遺書より~

文・構成:シネマトゥデイ編集部

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