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生と死、現実と夢幻を彷徨う故・鈴木清順の謎かけ怪奇映画『ツィゴイネルワイゼン』

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『ツィゴイネルワイゼン』監督:鈴木清順/脚本:田中陽造 - 写真提供:リトルモア

 鈴木清順監督の訃報(2017年2月13日、享年93)が世界中を駆け巡ったとき、おそらく多くの方の脳裏に『ツィゴイネルワイゼン』(1980)のあのシーン、あの音、あのセリフが浮かんだことだろう。それは数ある代表作の一つ、というだけでなく、『ツィゴイネルワイゼン』が「生きているひとは死んでいて、死んだひとこそ生きているよう」に感じる作品であるがゆえに。つまり他界へと旅立ったものの、清順監督自身がもとから映画さながらに、いつの間にかひょいと裏返って現世にまた立っていそうな、超然とした“マスター”的な存在であったからである。(轟夕起夫)

【写真】今年2月13日に亡くなった巨匠・鈴木清順監督

 というわけで本題に。清順監督にとって『ツィゴイネルワイゼン』は、特別な作品である。それまで、日活の2本立て興行を支えるジャンルムービー、いわゆるプログラムピクチャーの作り手であったのだが、初の単独ロードショーを飾り、しかも従来とは違って完全インディペンデント製作体制の下、本作を生み出したのだ。事の成り立ちは、車で通りかかった(旧知の仲の)荒戸源次郎プロデューサーに「映画を作りませんか?」と突然声をかけられ、いきなり「5,000万円の予算内で出来る題材ならば全てお任せします」と誘われて企画がスタート。浮世離れした“マスター”らしいエピソードだ。

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左から藤田敏八、大谷直子、原田芳雄、大楠道代 写真提供:リトルモア

 夏目漱石門下の作家・内田百聞の短編「サラサーテの盤」を軸に、「山高帽子」「花火」「東京日記」などをちりばめ、そこにさらなる奇想を多々盛り込んでみせた本作(脚本は田中陽造)。一言で括るなら、冒頭でも触れたごとく、“幽界(死後の世界)と顕界(現世)”の境い目が溶解してゆく怪異譚(たん)、世にも不思議な怪奇映画である。妖(あやかし)の気配、パラノーマルなムードが作品の隅々まで充満している。

 冒頭、バイオリンの物憂げな音色でサラサーテの名曲「ツィゴイネルワイゼン」が流れる中、画面の外から2人の男の問答がカットインしてくる。「何て言ったんだろ」「君にもわからないか」。そのSPレコードは、自らバイオリンを弾く作曲家サラサーテの声が入ったもので、開幕早々、聞き取れない言葉という“謎”が提示されるのだ。すなわちこれは、あからさまに映画全体の構造を示しており、以後もスッキリとは答えの出ない、謎かけめいたシーンが続いていき、観る者は徐々に、主人公と共に“平衡感覚”を失っていく。

 主人公は先の問答をしていた一人、士官学校独逸(ドイツ)語教授の青地(藤田敏八)。今一人の男、無頼で高等遊民(編集部注:エリートだが、経済力があり働かずその日食らしをしている者)の中砂(原田芳雄)を友に持つ。中砂はまさしくツィゴイネルワイゼン=ジプシー(ロマ)のメロディーを体に内在させており、思うがままに旅に出て各地をさすらっている。主要の登場人物はあと、青地の妻・周子(大楠道代)と中砂の妻・園、それから園と瓜ふたつの芸者・小稲(大谷直子の一人二役)。青地はこの、死んでいるような「生きているひと」、生きているような「死んでいるひと」たちに翻弄されまくった挙句、自分も“幽界と顕界”の境い目を越えてしまうのだった。

青地(藤田敏八)の奔放な妻を妖艶に演じた大楠道代。写真提供:リトルモア

 難解に見えて、映画の骨子は明瞭。ただ、その骨組みが一種の“迷路”になっていて、一度入ったら手探りで彷徨うよう、入念に仕掛けが施されているのである。あまたの謎かけめいたシーンがそれで、しかも怪奇映画であるから筋の通った条理や因果関係は排されており、どこまで行っても観る者を落ち着かせる意味には辿りつかない。辿りつかないが……映画が醸造する“肌触り”はすこぶる蠱惑(こわく)的で、「ツィゴイネルワイゼン」という名の「脱出ゲーム」に挑んだプレイヤーたちをかどわかしつつ病み付きにさせる。

 此岸(しがん)と彼岸(ひがん)とを結び、青地が劇中たびたび往来する、中砂の居宅へとつながる幽玄なる切通しがキービジュアルなのだが、この映画自体が摩訶不思議な“洞門(どうもん)”とも言えよう。要所要所に退廃的なエロティシズムとおびただしい食のシーンが配置され、死の“肌触り”を逆に際立たせる。「腐りかけがいいのよ。何でも腐ってゆくときが一番旨いのさ」と中砂は、周子の肉体を貪り、周子は腐りかけた水蜜桃を味わい、皮の裏まで舐める(彼女はその前に、ゴミの入った中砂の瞼(まぶた)と眼球にも舌を這わせている)。園の死後、忘れ形見の乳母として芸者・小稲は中砂邸に入ると次第に、もののけとなっていく。「あと少しで別のモノになろうとするギリギリのところ。境目。また限界、物の端」のことを“際(キワ)”と言うが、生と死、現実と夢幻が背中合わせになった主人公の周りは際だらけ。本作は徹底して“際”にこだわった、キワキワの映画である。

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 ところで、当時の清順監督の状況はこうであった。あまりにアヴァンギャルドなスタイルゆえに日活を不当解雇された呪われた傑作『殺しの烙印』(1967)の長いブランクをくぐり抜け、ヤキが回るどころか一層アナーキーさを増し、カルト度の上がった『悲愁物語』(1977)でカムバック! この『ツィゴイネルワイゼン』では日活時代からお馴染みの、「解剖台の上の蝙蝠傘とミシンの出会い」のような“清順流ジャンプカット”が怪奇的ラビリンスを現出させた。それは、単なるシュールな映像ではない。シュルレアリスムの場合、蝙蝠傘とミシンは「異質なもの同士の偶然の出会い」を表しているのだが、清順映画はごく普通の何気ないシーンであっても悪戯が仕組まれ、そしてここぞというところでは趣向をこらして大きく傾(かぶ)き、歪めた時空間を「あらよ!」っと大胆に、あたかも必然のように接続してしまうのである。因縁の『殺しの烙印』の撮影・永塚一栄を筆頭に、ベストチームが意趣返しのために再結集。「さまざまな要因が絡み合ったんでしょうね。それに運の強いスタッフ、キャストが揃ったんだよ。つけ加えればお化けも味方した」と、のちに清順監督は語っていたが、第26回キネマ旬報ベスト・テン日本映画第1位、第23回ブルーリボン賞監督賞、第4回日本アカデミー賞最優秀作品賞などを獲得し、国内だけでなく第31回ベルリン国際映画祭の審査員特別賞にも輝いた。

 言うなれば、全編が“謎かけの魅惑”で構築されている映画『ツィゴイネルワイゼン』。最後に一つ、クイズを。中砂が砂丘で踊る場面で、画面の外から「もうやめないか」「まだやってるのか」「もう正午だぞ」「そ~ら、正午だ」といった謎のツッコミが入る。一体、誰の声か?

 そう、清順監督その人である。“マスター”はあのときからすでに、現実を飛び越え、天上人として彼岸から下界をのぞき見ていたのだ!

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