【年末特集企画】東日本大震災後映画監督が東北で出会った人、文化、そして歴史 No.3
No.3 東北の水を飲んだ者は、東北と向き合い続ける
――松林監督の続投宣言が出ましたが、皆さん今後も震災をテーマに?
一同:何らかの形では、必ず。
藤井監督:聞いた話によると、震災関連で200本の映画ができたとか。
松林監督:劇場公開されたのがそれくらいで、1,000本ぐらいあるそうです。
藤井監督:僕はそれを全然多くないと思っているんです。でも実際に震災関連のテレビ視聴率も映画館も苦戦を強いられているという……。
松林監督:僕の『祭の馬』は馬の映画ですから(笑)。
藤井監督:でも(東北で)22万人ぐらい(※2013年11月14日現在の復興庁発表によると全国の避難者数約27万8,000人)が避難生活を続けていて、非常事態は続いているわけだし、新しい問題は更新され続けているんですよ。
濱口監督:前は正しいと思って置いていたカメラの位置が、もはやないと。
藤井監督:そういう意味で、カメラを置く位置はまだまだある。同時に、そこで作家の造形性がこれまで以上に問われてくる。イスラエル・パレスチナ問題のように、作家たちが常に撮り続ける文化的状況が作れるか。これは大きい問題だと思いますよ。
酒井監督:一人の作家にできることは限られています。もしかしたら作家じゃない人が撮ってもいいと思います。
――2011年の山形国際ドキュメンタリー映画祭が初の震災特集「ともにあるCinema with Us」を組んだとき、震災をきっかけに映画を初めて作ったという人も多かった。
酒井監督:その山形で観た大久保愉伊監督『鎚音』は震災前後の映像で構成されているのだけど、iPhoneで撮った映像が一番きれいで衝撃だった。今やiPadで編集もできます。
松林監督:原子力の問題は特に、今後、誰も体験したことのない問題が起こると思うし、作り続けないといけないと思うんです。ただ映画って、いろんな人に届くのが一番良いのだろうけど、じゃあ自分のエゴのために作っているのか? 果たして自分がこの映画で満足しているのか? と言えば、満足していないんだなあ。
酒井監督:根の深い悩みですね。
松林監督:しかも映画評でボロクソ言われたり。一体誰のために作っているんだ? って。
酒井監督:でも、無視されるのが一番嫌ですよね。山形国際ドキュメンタリー映画祭で『なみのこえ(YIDFF特別版)』が上映された時、「どうしてこれがセレクションされたのかわからない」と批判されたことがあった。そういう見方をされない方が逆に不安になります。震災というモチーフで、文句の言えない正しさを押し付けている感じがして、皆の反応を封じてしまっているとしたら嫌だなと思っていたから。
濱口監督:被災者が語っていることで、反論しにくいものを作っているのかもしれないと。批判はむしろ歓迎すべきだと思っているし、そもそも自分の作っている映画が被災者全てを代弁しているわけではないので。
藤井監督:僕自身は震災前と同じスタンスで撮影しているつもりだけど、「転向」したとか言われ、面白いなあと思って。
濱口監督:そこ(福島)で暮らすことを選んだ人をクローズアップすることで?
藤井監督:そう。淡々と非日常事態の中の日常を撮っていくわけじゃないですか。すると、どこかで解釈が反転して、住むことを肯定させるプロパガンダ映画だと言われる(『プロジェクト FUKUSHIMA!』)。でも僕の場合は、どこで暮らしていても肯定。そこがたとえ(放射能被害の影響で)実際に人が少なくなっていても、悲観的に描かない。それは福島だけじゃなく、他の場所でも同様のスタンスで撮ってきた。それが原発事故が起こって以降、リベラルな人たちこそ、そこに住む人たちに想像力を働かせないで逃げろと言う。松林さんも、『祭の馬』で馬のおちんちんを含めて被災馬にフォーカスしたのは、東京の無責任な文化に対して違和感があるから?
松林監督:そういうところもあると思います。ただこの先のことはまだわからないけど、僕は原発と人間は共存できなかったということを映像で見せていきたい。この感覚だけは、絶対間違っていないと思っている。
濱口監督:僕はずっと映画が好きで観てきて、100年前の映画がまるで現在のように立ち上がってくることを味わっていたけど、昔の人は未来のために作っていたわけではないでしょう。なので未来どうこうではなく、今の自分が仕事として、自分の興味の対象にカメラを向ける。それだけです。でも、さっき話題になった当事者性というのも、これからはもう少し考えてみます(笑)。
酒井監督:何かのためというより、自分の視点で見えることを記録することで、歴史のように積み重なっていくことがありますから。
松林監督:先日、第14回東京フィルメックスで来日した『ザ・ミッシング・ピクチャー(英題) / The Missing Picture』(カンボジア・フランス合作)のリティー・パニュ監督が言っていましたけど、「自分はポル・ポト時代を経験していなかったら絶対映画監督になっていない」と。何かの大きな経験が、その人の人生を作ることもあると思う。この時代、東北に縁を持った作り手は、どこかで震災のことを引きずりながら生きていくんだと思うし、作り続けていくと思いますよ、皆。
――
2013年11月末に気仙沼を訪れると、県道26号線沿いは店舗が増えていたが、港方面へ向かうといまだに灰色の景色が広がっていた。地元紙を開くと、復興情報が圧倒的な量で紙面を占めており、首都圏との情報量の差にがくぜんとした。この被災地とわれわれの橋渡しをしてくれているのが、今回登場した4人のような映像作家たちだ。1本の作品を生み出すまでの時間と体験は今回の対談だけでは語り尽くせないものがあるだろう。しかし彼らの言葉を聞いていると、震災は決して悲劇だけを生んだわけではないと思うのだ。
【映画監督が東北で出会った! 人、文化、そして歴史】
No.1 かかわりの違いが作品に表れる
No.2 歴史への関心、深まる人との距離
No.3 東北の水を飲んだ者は、東北と向き合い続ける