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『かぐや姫の物語』アカデミー賞受賞の可能性と意味

第87回アカデミー賞

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ノミニーズランチョンに出席したときの高畑勲監督
ノミニーズランチョンに出席したときの高畑勲監督 - Frazer Harrison / Getty Images

 米国アカデミー賞長編アニメ部門にノミネートされた『かぐや姫の物語』に関しては、原稿執筆中の2月2日(現地時間)にも高畑勲監督がノミネート対象者ほか約150人が集う「ランチ会」に出席したことが報じられ、関心の高さが伝わってきた。(文・氷川竜介=アニメ・特撮研究家/明治大学大学院客員教授)

 実は日本の長編がノミネートまで行くこと自体、それほど多くない。アニメーション部門が設立された2001年直後の2002年には宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』が『リロ&スティッチ』を抑えて受賞したものの、以後は2005年に『ハウルの動く城』、2013年に『風立ちぬ』と宮崎駿監督作品が2回ノミネートされたに留まり、同監督の『崖の上のポニョ』(2008)ですら入っていない。今敏監督の『東京ゴッドファーザーズ』(2003)など直前まで行った作品はいくつかあるが、実はノミネートされないと宣伝などに「アカデミー賞」の名前が使えないため、記録にも残らないという寂しい状況がある。

 日本では数多くのアニメ映画が毎年公開されているのに、なぜ対象外となるのか。それは日本ではマンガ・ゲーム・ライトノベルなどメディア芸術の層が厚すぎて、オーディエンスが相互にクロスオーバーしていることが一因であろう。アニメ映画の企画成立も国内向けビジネスに特化された結果、映画としての独立性が乏しくなるケースも多く、結果的に越境性に欠けるわけだ。アニメ映画の大半はTVアニメの拡大版、続編でもあるし、極論を言えば「キャラクター」しか話題にされないフィルムも大多数だ。

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 徹底してドメスティック、悪く言えば鎖国的な環境下でエッジが立った日本製アニメ作品群が海外のマニアに訴求しているのは事実だ。とは言え、そこに一般社会につながる拡がりがどの程度あるかには疑問が残る。米国内で公開された映画の全体状況を位置づけるアカデミー賞が普遍性のある観点で多角的に評価するのは当然で、ビデオソフトやケーブルテレビ、ネット配信というニッチなビジネス展開をする日本製アニメ状況とは乖離もある。評価には大衆的な娯楽性と同時に、時代や社会と切り結んでいるかという作家性の有無も大きく問われるし、過去からつながる芸術のコンテクストをふまえた上で、表現が何らか更新されているか等も基準であるに違いない。実際、このような基準で絞りこまれたことは、今年のノミネート作品のトレーラーから如実に伝わってくる。

『かぐや姫の物語』
アカデミー賞長編アニメ映画賞にノミネートされた『かぐや姫の物語』-(C) 2013 畑事務所・GNDHDDTK

 さてこのような観点に立つと、高畑勲監督の『かぐや姫の物語』の見え方も大きく変わり、むしろ優位な点が浮かびあがってきて、改めて期待が高まった。輪郭線とベタ塗りという「セルルック」にこだわる「日本ドメスティックなアニメ基準」からすれば『かぐや姫』は異質で、背景と質感の境界を曖昧にさせた「人と世界の融合」は非常に特異かつ新規性のある質感である。ストーリーの語り口にもある種の不明瞭さがあり、「わかりやすさ」を求める人には戸惑いも残すだろうが、明解でない分だけ「あれはどういう意味だったのか」と、観客によっては映画が終わっても思索は続いていく。エンドマークが出たらむしろ積極的に忘れていただき、次のタイトルを早くご賞味いただこうという「大量消費こそ正義」という基準からすれば、『かぐや姫』は規格外のことばかり行っている一方、「作品性」という点ではむしろ当然のことばかりと言える。 

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 ビジネス的成果優先の評価では、製作費51.5億円をかけて興行収入24.7憶円という成績だった『かぐや姫』は、大きな話題となりえなかった。ところがアカデミー賞候補という観点で見つめなおしてみると、むしろそうした「映画的基準」での新規性をきちんと示している。専門家集団からみれば、『かぐや姫』のアプローチこそは物語・表現の両面から実に正当なものと映るはずだ。実際、アニー賞こそ逃したものの、すでにロサンゼルス、トロント、ボストンなどの映画批評家協会賞を受賞した他、各国の映画祭でも高い評価を受けているではないか。

 高畑勲監督には「十二世紀のアニメーション 国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの」という著書があり、日本でアニメーション芸術が発達した起源を、まさに「かぐや姫の時代」においている。その理論を映像で実証したのが今回の作品という点ひとつとっても、まさしく日本でしか作れない、日本の歴史と精神文化を集約させたアニメーションに位置づけられる。そんな作品の解釈に際し、筆者としては「生命の輝きに囲まれていながら認識しようとせず、制度を優先する人間性の悲哀」を強く感じた。そこには「自然に接しようとしない現代人」への警鐘も含まれているし、何より「生命を映し出す表現の多種多様な可能性がデジタル導入によって開かれたはずなのに、制度的表現を堅持しようとしているアニメーション」という現状へのアンチテーゼが胸に迫った。だからこそ、もっとも古い素材でもっとも新しい表現を極めたいという気概も真摯に受け止めたいし、それが世界に対しどれだけの貫通力をもつものか、見届けてみたくなった。

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 もちろんアカデミー賞は絶対基準を徹底したアワードではなく、むしろ米国映画業界のセレモニー的性質が強い。ディズニー系のグローバルスタンダードなエンターテインメントが受賞する傾向は当然強いが、ことアニメーションに関しては「アメリカとは異なるエキゾチシズムと普遍性」を兼ねそなえた作品が評価されるケースが目立ってきた。それは世界各国からの移民文化を「るつぼ的に」受けいれてきた米国のしたたかさ、懐の深さなのだろうか。その点でも高畑勲監督の奮戦には、大きく期待させるものが感じられる。

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