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『大統領の陰謀』(1976年)監督:アラン・J・パクラ 出演:ダスティン・ホフマン、ロバート・レッドフォード 第43回

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映画『大統領の陰謀』より - (C)Warner Bros./Photofest/ゲッティ イメージズ

 政府や警察、企業から情報を中心とする発表報道に対して、調査報道とは継続的な独自の取材により情報を積み重ね、事件やテーマに対して核心に迫る種類の報道のスタイルを指す。『スポットライト 世紀のスクープ』は、調査報道によりカトリック教会の闇を暴いた米有力紙の記者たちの活躍を描き、第88回アカデミー賞で作品賞&脚本賞を受賞した。同じく調査報道を描いた秀作として知られるのが、「ウォーターゲート事件」を調査した2名の新聞記者の手記「大統領の陰謀ーニクソンを追いつめた300日」に基づく『大統領の陰謀』(1976)である。(今祥枝)

【写真】映画『大統領の陰謀』フォトギャラリー

 共和党のニクソン大統領の政権下、1972年6月17日。ワシントンDCのウォータゲート・オフィス・ビルの5階にある民主党全国委員会本部に、5人の男たちが侵入する事件が発生。米有力紙ワシントン・ポストの社会部の新米記者ボブ・ウッドワードロバート・レッドフォード)は、上司ハリー・ローゼンフェルド(ジャック・ウォーデン)に呼ばれて事件の取材に当たることに。当初、彼らは来たるべき秋の大統領選挙に備えて民主党の弱みを握り、キャンペーンを共和党の有利に導こうとする熱心な支持者の単独犯と考えられていたが、裁判所の予審を傍聴したウッドワードは政府筋の弁護士たちの姿を認めて、単なる刑事事件ではないとにらむ。

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 事実、5人は元CIAの情報部員と大統領再選本部の現役の対策員という布陣だった。同じくこの事件に興味を抱いていたベテラン記者カール・バーンスタインダスティン・ホフマン)とともに、これがホワイトハウスが発表するような単なる侵入事件ではなく、選挙制度や市民のプライバシー侵害といった、巧妙に水面下で行われているアメリカの“自由”や“正義”の理念を脅かす不正の、氷山の一角であるという疑念を強めていく。編集局長ハワード・シモンズ(マーティン・バルサム)、編集主幹のベン・ブラッドリー(ジェイソン・ロバーズ)らにかけ合い、ウッドワードとバーンスタインはコンビで本腰を入れて調査に乗り出す。

 世にいう「ウォーターゲート事件」とは、1972年6月に民主党本部で起きた侵入盗聴事件に始まり、1974年8月にニクソン大統領が辞任に追い込まれるまでの政治スキャンダルを指す。2年2か月に及ぶ政治の混乱は、現役大統領の任期中の辞任という衝撃的な形で一応の収束をみるが、ニクソン政権をここまで追い詰める大きな要因となったのが、彼らが行った調査報道だ。映画は盗聴侵入事件に始まり、2人が関係者に聞き取りを行い、周辺事情を調査し、必要な資料や証言を集めては、そこから推理を展開。新たな事実を突き止めては裏取りを行い、次のステップへと歩を進めていく。139分のほぼ全編が、この繰り返しだ。実に地道かつ忍耐強い仕事ぶりを丁寧に追いながら、物語はウッドワードとバーンスタインの会話を中心に進んでいく。

 本作は、事件の記憶も新しい1976年に公開されていることもあって、観客にある程度の知識があることが前提となっている作り。そのため、サラっと本題に入って、あれよあれよという間に事態は変化していくので、当時のアメリカの時代背景やウォーターゲート事件について、予備知識ゼロでは少しわかりづらいかもしれない。だが、この説明的な要素のなさが、本作を秀作たらしめた大きな理由の一つでもあるだろう。途切れることのないウッドワードとバーンスタインの会話には臨場感があり、ここになんだかんだと説明調のシーンがインサートされると、緩急をつけつつも一定のテンポをキープする映画全体のリズムが崩れてしまう。

 デヴィッド・シャイアの控えめな劇伴(伴奏音楽)は無駄に感情を鼓舞することなく、時に緊迫感を解くような効果がある。対して、記者たちがパチパチとタイプライターを打つ音、編集部の喧騒、そして脚本家のウィリアム・ゴールドマンによる素晴らしいダイアローグ(会話)にこそ焦燥感や切迫感があり、映画の“音”として完璧に機能している。さらにロバート・L・ウルフによる編集のタイトさ、ホフマン、レッドフォードの前向きな明るさを感じさせるフレッシュな演技に対して、ロバーズら脇を固める個性派たちが要所要所で見せる存在感。これらをきっちりタイトにまとめあげているアラン・J・パクラ監督は、『アラバマ物語』(1962)のプロデューサーで、監督としては『ソフィーの選択』(1982)や『推定無罪』(1990)などで知られる。まさに社会派エンターテインメントの見せ方を心得ている名匠だ。

 もし前述のような理由で話にわかりにくさがあったとしても、ウッドワードと内部情報をリークする謎の人物“ディープ・スロート”(ハル・ホルブルック)との密会や、盗聴から隠蔽工作、司法妨害、選挙資金の流れの不自然さなどを一つ一つ暴いていく過程はスリリングで、どこか探偵ドラマのような醍醐味がある。時には新聞社の上層部を相手に闘うウッドワードとバーンスタイン、真実に近づけば近づくほどFBIやCIA、国家権力による圧力に身の危険さえをじわじわと感じていく新聞社の面々の複雑な心理など、過剰にドラマチックな盛り上げ方をせずとも、観客をぐいぐいとラストへ向かわせるパクラの手腕はさすがである。

 『大統領の陰謀』を今の時代に観ることには、ある種の感慨深さを伴うかもしれない。それは、ウッドワードとバーンスタインが目的に向かって迷いがないこと、真実を追求するためにまっすぐに突き進むという、本来あるべきジャーナリストの姿にあると思う。とりわけ新米のウッドワードは特ダネで手柄を立てたいという功名心があっただろうし、そもそも記者がスクープを取りたいと願うのは当然だろう。だが、本作では「スクープをとる=正義」の図式が揺るがない点にすがすがしさがある。

 今に始まったことでもないが、近年、日本の大マスコミやテレビの報道への信頼感は、残念ながら低下の一途をたどっている。発表報道に依存し、“不都合な真実”にはふたをする公式発表の丸のみが、大マスコミの役割のように思われている部分があることも否めない。十把一絡(じっぱひとから)げにはできないが、イメージとして新聞記者やジャーナリストを、心の底から「真実を追求し、正義をなすことを使命とするかっこいい職業」だと思っている人は、どれぐらいいるのだろうか。そんな現代において、何をどう妨害されようとも真実を追求せずにはいられないという記者魂、そしてジャーナリストの基本のキである取材を地道にこつこつと積み重ねることで、結果を出していくことの正しさを伝える本作は、報道のあり方について改めて考えさせられるものがある。

 もっとも、本作の中でも新聞やメディアへの不信感を端的に表す描写はある。“ディープ・スロート”はウッドワードに情報を提供しているにも関わらず、「新聞が大嫌いだ。すべてにひどく不正確で、軽薄だ」と吐き捨てるように言う。国家権力とマスコミの関係性に対しても同様で、ウッドワードたちが間違えて訪問してしまった一般女性は、彼らが名乗ると2人がニクソン政権に対する追求の手を緩めないことを褒め称え、「私も共和党員だけど、ホントにひどいことだと思っている」と憤慨する。要するに、なんとなく世間一般の通念として「ニクソンは不正を働いている」ようだが、そのタブーに踏み込む人間がいなかったのだ。一方で世間の関心がイマイチ薄いからこそ、記者がリスクを負ってまでネタを追わないという苦い現実もあっただろう。だが、そこにこそ、記者が、報道が果たす役割があるのではないか。社内のテレビに映し出される本丸(ほんまる)ニクソン大統領に背を向け、黙々とタイプライターに向かいキーを叩くウッドワードとバーンスタインの物言わぬ姿に胸が熱くなるのは、ただただ記事を世に出すことで“何か”を変えようとする彼らの信念ゆえだろう。

 映画とは、その時の社会を反映するエンタメだ。『スポットライト 世紀のスクープ』が脚光を浴び、折しも米大統領選が注目を集めている今年。約40年前にオスカーで8部門のノミネーションを獲得し、4部門の受賞を果たした本作は、今こそ振り返ってみたい1本である。

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