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ジェームズ・ボンドと真逆の世界観!ジョン・ル・カレ映画の魅力『寒い国から帰ったスパイ』(1965年)

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スパイ小説の大家、ジョン・ル・カレ初の映画化作品『寒い国から帰ったスパイ』 - Paramount Pictures / Photofest / ゲッティイメージズ

 スパイ小説の大家にして、自らもイギリス秘密情報部に所属していた経歴を持つジョン・ル・カレ。1961年に小説家デビューを果たして以来、映像化作品も多く、とりわけ2000年代以降は映画化が相次いでいる。現在の活況の火付け役は、日本でも人気を博した玄人好みの『裏切りのサーカス』(2011)だろう。今年はテレビドラマシリーズ化された「ナイト・マネジャー」(2016)、『われらが背きし者』(2016)が配信、公開され、ここにきてル・カレブームの到来といっても過言ではない。その原点と言えるのが、東西冷戦下の諜報活動を描いた、ル・カレの初の映画化作品であるイギリス映画『寒い国から帰ったスパイ』(1965)だ。(今祥枝)

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 イギリス秘密情報部(ケンブリッジ・サーカス)のアレック・リーマス(リチャード・バートン)は、東西の諜報合戦も激化する冷戦の最前線、ベルリンにおける責任者だった。だが、東ドイツの情報源だったスパイのカルル・リーメックの亡命が失敗し、ベルリンでの諜報網は壊滅。帰国したリーマスは、通称サーカスのリーダー、管理官(コントロール)から、東ドイツ諜報機関の副長官ムント(ペーター・ヴァン・アイク)を失脚に追い込むべく、密命を受ける。西側のスパイを次々と抹殺したムントこそが早急に倒すべき敵であり、リーマスの最も憎むべき相手だった。

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 表向きは組織に見捨てられ、すさんだ生活を送るリーマス。職安で紹介された図書館の同僚ナン・ペリー(クレア・ブルーム)と恋に落ち、幸せを感じたのも束の間、東ドイツの工作員が接触。舞台はオランダから東ドイツへと移り、リーマスはムントと組織内で敵対するユダヤ人のフィードラー(オスカー・ウェルナー)から取り調べを受け、コードネーム“転がる石”の情報を流して、フィードラーにムントが二重スパイであると告発させるに至る。ムントの裁判が開かれ、リーマスの任務は成功したかに見えたが……。

 原作はル・カレが1963年に発表し、一躍名声を高めたベストセラー小説「寒い国から帰ってきたスパイ」(翻訳:宇野利泰/早川書房)。派手なアクションはなく、リアリズムが貫かれた作風は、まさに現実のスパイとはこうなのかと苦いエピソードの連続。同時に、ル・カレ作品ではお約束とも言うべき、1度ならず読者を驚かせるドンデン返しは鮮やか。もっとも、事態の全容が明らかになってもなお、最後の瞬間までリーマスがどうなるのかはわからないので、エンドクレジットが出るまで気が抜けない。映画は、ほぼ原作通り。すべてが終わった後は、なんとも言えない無常感に襲われるあたりは社会派の要素にも優れ、メッセージ性も含めてル・カレの原作の完成度の高さを改めて思い知らされる。

 原作が優秀であればあるほど映像化のハードルは高くなるのが常だが、ル・カレの映像化作品は“ハズレなし”と言っていい。これは、複雑で2時間程度の映画で語ることの難しいと思われる情報量の処理において、極端に説明を省き、ハードボイルド調の世界観を作り上げることによって、ル・カレの小説のスタイルを踏襲できることが挙げられるだろう(それゆえわかりにくさが生じることもあるのだが)。例えば、東西ドイツを隔てる有刺鉄線がもの悲しい旋律とともに映し出される冒頭、リーメックの亡命の顛末は数分で処理され、原作にある詳細な背景説明はなされないが、リーマスの苦い表情と映像が伝える悲劇性が十分に深刻さを物語っている。『屋根の上のバイオリン弾き』(1971)でオスカーを受賞する撮影監督、オズワルド・モリスによる、シャープかつスタイリッシュなモノクロームの映像美は特筆に価する。

 他にもリーマスが東ドイツのスパイと接触するまでの話は、かなりの省略形だが、際立つのはリーマスのセリフや心理描写が極端に少ない点だ。リーダーであるコントロールの言葉への反応、接触してきた東ドイツのスパイの表情を読む鋭い眼差し、予想外の展開に自分が置かれた立場を悟る瞬間、そして滅多に笑わないリーマスがナンに見せる微笑み。イギリスの名優リチャード・バートンは、ちょっとした表情の変化に長け、とりわけ目で多くを物語る演技には感嘆する。人生に疲れ、すべてを諦めたような、それでいて内なる闘志を静かに燃やす中年スパイは秀逸だ。

 さて、本作は冷戦下のスパイを通して、資本主義と共産主義の闘いの無情さ、ベルリンの壁が生んだ悲劇を描いた作品でもある。原作が発表された当時、マタ・ハリ(注:第一次世界大戦中にスパイ容疑でフランスに捕らえられ、有罪判決を受けて処刑されたオランダ人ダンサー)やジェームズ・ボンドのような従来の超人的な活躍をするスパイではなく、ひたすら任務の遂行に人生を捧げる主人公は哀れを誘い、そのリアリズムが新鮮なものに映ったと、原作の訳者あとがきで故・宇野氏も言及している。しかし、1945年から1989年まで続いた東西冷戦が終わり、スパイは新たな敵を探さなくてはならなくなった。『007』『ミッション:インポッシブル』シリーズなど、スパイのあり方への試行錯誤は近作に顕著だし(前者は苦戦しているように見えるが)、ル・カレ自身も作品の中で次々と敵を変えて現代にマッチしたスパイ像をアップデートさせている。『誰よりも狙われた男』(2013)では混沌としたベルリンの諜報合戦の今を描き、「ナイト・マネジャー」では武器商人、『われらが背きし者』ではロシアのマフィア。だが、ここにきてイギリスでは来年放映予定のテレビドラマ版「寒い国から帰ったスパイ」の企画が進行中と、今また本作が注目される理由はどこにあるのか。

 それは、ル・カレが神話ではなく極めて現代的で切実な問題として、リアリスティックに描いたスパイの姿に、イギリス(西側)は善で、共産主義(東側)は悪といった構図はない点にあると考える。ロシアをバックにした東ドイツの諜報部が、人を人とも思わない非道な行いをするやからであり、それに対抗するためにはイギリス(西側)も非情にならなければいけない。その結果、とどのつまりは双方が全く似通った存在になってしまったという皮肉は、冒頭で寒い国=ドイツから戻ったリーマスに、コントロールが自ら語っている。怪物と闘ううちに、自らも怪物と化し、人間性を失ってしまうという矛盾は、現在の対テロ戦争に通じるものがあるように思う。

 正義を為すという大義のために、果たして、どこまでの行為が許されるのか? 多くのテロを扱った作品を観ながら、そう自問自答する観客は多いに違いない。ル・カレは本作について、「個人は思想よりも重要であるという考え方を示したかった」と語っている。劇中、個人とイデオロギーの問題は、前述のコントロールのセリフや、リーマスとフィードラー、ナンとリーマスの会話などで何度も語られる。リーマスは言う。「スパイとは、ただ下品でみじめな人間だ。自警団気取りで働いているだけ。昨日は敵として殺そうとした相手が、今日は味方になる。大義のためなら殺しも致し方ない。共産党だって人を殺しているだろう」。テロの時代においても、これは重要な問いかけであり指摘であろう。また、民主主義を守るために全体主義に与することへの危惧は、『ブリッジ・オブ・スパイ』(2015)や『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』(2015)など、近年東西冷戦や赤狩りを描いた作品が続いているが、これらの題材にも通じるものがあるだろう(本作のマーティン・リット監督も赤狩りに苦しんだ一人)。ル・カレが描く東西冷戦下のスパイの非情さと悲しみは、今の時代にも非常に説得力を持って訴えかけてくるものがある。その事実に、少なからず不安を覚えるのだった。

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