『国宝』吉沢亮&横浜流星、歌舞伎シーンの裏側 李相日監督が語る

吉田修一の小説を吉沢亮主演、横浜流星共演により映画化する『国宝』(公開中)のメガホンをとった李相日監督。吉田作品の映画化は『悪人』(2010)、『怒り』(2016)に続き3度目になるが、かねてから女形を題材にした映画を作りたい思いがあったという。なぜ、女形に注目したのか? 映画で歌舞伎を描くとはどういうことなのか? 李監督が舞台裏を語った(※一部ネタバレあり)。
撮影中の吉沢亮・横浜流星・渡辺謙・李相日監督<メイキング6枚>
本作は、原作者の吉田が3年の間歌舞伎の黒衣を纏い、楽屋に入った経験をもとに書き上げた同名小説を原作に、極道の息子として生まれながらも歌舞伎の世界に飛び込み、芸の道に人生を捧げる喜久雄の50年を追う一代記。喜久雄は、半二郎の実の息子として生まれながらに将来を約束された御曹司・俊介と出会い、ライバルとして互いを高め合うなかで、喜久雄は「血筋」、俊介は「才能」を渇望し、愛憎が入り乱れていく。本作の成り立ちについて李監督はこう語る。
「初めは実在する女形の方をモデルにした映画を構想していましたが、条件が整わずに一度は断念しました。それから数年が経ち、今度は吉田修一さんが歌舞伎を題材にした作品を書かれる、取材に行かれることを伺い、仕上がりを楽しみに待っていました」

なぜ女形だったのか? と問うと、「ですよね……毎回取材で聞かれて、いつも的確に答えられないんですけど」と切り出しながら、考えを巡らせる。
「女形はある意味、異形だと思うんです。耳学問ですけど、男性が女性を真似るのではないんだと。男性でも女性でもない、別の色香を立ち上がらせるような、わかるようでわからない面白さがある。それを体現して、追求して、立ち上がらせた存在を見ると“ああ、こういうことなのか”と強く伝わってきた。」
本作では、主人公・喜久雄を李組初参加となる吉沢亮、俊介を『流浪の月』(2022)以来2度目の参加となる横浜流星、半二郎を『許されざる者』(2013)、『怒り』に続き3度目となる渡辺謙が演じる。撮影においては、歌舞伎役者を演じる俳優は全員それぞれ歌舞伎の所作を身につけることが前提だったというが、李監督はその過程をこう振り返る。
「とにかく歌舞伎俳優に見えるように、頭の先から爪の先まで、その空気感をまとってもらうには鍛錬しかない。そのための訓練は専門家である(振付の)谷口(裕和)先生にお任せして、僕はただひたすら過程を見続ける。そうしてある種の形、型が出来上がった段階、その先が、僕が深く関わるところです。大前提として、この映画の主眼は歌舞伎をしっかり見せることだけではない。キャラクターとして喜久雄なら喜久雄として湧き起こる感情を乗せるというか。型から生身の感情が突き破って出てこないと『国宝』の歌舞伎シーンにならないと思っていたので、そこを伝える、引き出す必要がありました」

「歌舞伎を演じる人を見せたい」という意図としてカメラワークにも創意工夫が見られる。その一つが、舞台に立つ喜久雄や俊介を背後から捉えたショットを多用している点だ。
「演者からの視点や気持ちをなるべく強調したい意図がありました。通常は観客は客席から舞台を見るわけですが、それと演者が見る世界とではまるで違うということを少しでも感じていただけたらと」
喜久雄は、立花組組長・立花権五郎(永瀬正敏)の息子として生まれ、産みの母を原爆症で亡くし、父の再婚相手であるマツ(宮澤エマ)に育てられた。ある日、宴会の場で起こった抗争で父を殺され、その場に居合わせた歌舞伎界のスター、花井半二郎に見初められて以来、人生の全てを芸に捧げることとなる。李監督は、喜久雄について「一言で表すなら怪物になってしまう人」と話す。
「喜久雄のような境地にたどり着ける人は滅多にいない。常人には理解できないから、周りからは怪物のように恐れられます。同時に、芸に生きる過程で失ったものも多くあるのだけれど、もしかしたら彼自身失ったことすら気づいていないかもしれない。そんな悲哀と孤独感も感じます。周りには怪物に見える一方で、その実彼は不幸なわけではない。それが彼にとっての幸せなんだと示したかった」

見終えたときに主人公・喜久雄の重ねた年月の重みを体感できるのが映画の魅力の一つでもあるが、その背景の一つが、劇中で喜久雄と俊介が同じ歌舞伎の演目を年月を挟んで2回演じていること。それが、「二人道成寺」と「曽根崎心中」。原作で数多く登場する演目からなぜこの二つを選んだのか。
「歌舞伎を見せるということより、歌舞伎を演じている人を見せるという観点なので、歌舞伎の舞台と日常のシーンが分離せずに繋がっていなければならない。その発想のもとに選ばれた演目は、『道成寺』に象徴される舞の演目と、『曽根崎心中』に象徴される芝居の演目、二つに大別されます。『道成寺』は喜久雄と俊介の絆、関係性を象徴する演目として。『曽根崎心中』は関係性に加え、運命に翻弄される二人の人生を象徴する形で選んでいます。特に『曽根崎心中』を演じる時には、彼らがどのような状況に置かれ、どんな思いを抱えて舞台に上がっているのか。その感情の発露を捉える必要がありました。安直に言いたくはないですけど『曽根崎心中』は離れがたい男女の愛の物語なので、形は違えど喜久雄と俊介の濃密な関係を表す意味でふさわしいと。二度見せることでその意味合いが成立すると考えました」

喜久雄にとってもう一つ重要な演目となるのが「鷺娘」。劇中、少年時代に人間国宝・万菊(田中泯)が舞ったこの演目を見た喜久雄は得も言われぬ衝撃を受け、この時に感じた恍惚のような感情に取り憑かれ、追い求めていく。原作の核ともなるこの独特な感情、瞬間を、李監督はどう捉えたのか。
「最終的に喜久雄がどこにたどり着くのか。この世のものとは思えない美しい世界、見果てぬ景色を見たのは喜久雄と万菊。もしかしたら俊介も、最後の最後に見たかもしれないとも思うんですけど、万菊から受け継いだもの、という意味合いも込めて『鷺娘』を選んでいます」
本作における最大の見せ場とも言える「鷺娘」は圧巻の一言。喜久雄が追い求めた、スクリーンでしか得られない恍惚の瞬間を体感できるはずだ。(取材・文:編集部 石井百合子)