ジョン・ランドー死去の『アバター3』、レイ・サンキーニがプロデューサー復帰

映画『アバター』シリーズ第3弾『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』のレイ・サンキーニが来日時にインタビューに応じ、ジェームズ・キャメロン監督とのタッグで知られた彼女が、同作で『ソラリス』(2002)以来の映画プロデューサー復帰を果たすことになった経緯を明かした。
キャメロン監督らが創設した制作会社ライトストームの社長を、1992年から一身上の都合で辞任する2006年まで務めたサンキーニ。『アバター』第1弾の公開は2009年ながら、革新的な3D映像とパフォーマンスキャプチャーで映像革命を起こした同作の企画は1996年からスタートしており、サンキーニはそもそも『アバター』シリーズにも深く関わっていた。
「ジム(キャメロン監督)とわたしは『トゥルーライズ』(1994)を共に作り、そこにジョン(ジョン・ランドー)が加わって、わたしたち3人で『タイタニック』(1997)を作りました。『ソラリス』(2002)も3人でやり、実は『アバター』(2009)に関しても、ジムから最初のスクリプトメント(※脚本とトリートメントの中間の文章)をもらったのは1996年のことでした。ですから、わたしは『アバター』の企画開発の最初の10年間にも関わっていたんです。まあ、それはほとんど、テクノロジーを発展させ、どうしたら同作を実現できるかを考えるという作業だったわけですが」
「そして、わたしは2006年、一身上の都合で辞任したのですが、ジムはライトストームにわたしのオフィスをそのまま残しておくべきだと言い張って(笑)。わたしはずっと『そんなおかしな辞任聞いたことがない!』と言っていました(笑)。それから7、8年後、ライトストームはスタジオの近くに移ったのですが、そこでもわたしにオフィスをくれて。ですから、わたしは(辞任した後も)常に出入りしていて、『アバター』シリーズに関しても深く関わり、起きているすべてのことを把握していました。脚本のすべてのバージョンを読んで、映画のすべてのカットを見て、ジムと密に連絡を取り、ジョン・ランドーともとても親しくしていました」
そんな時、ランドーがガンに侵された。「ある日、ジムがわたしのところへ来て、『僕は本当に、ジョンに治療に専念してほしいと思っている』と言いました。わたしたち皆がそう思っていました。そしてジムは『プロデューサーに戻って、手伝ってくれないか?』と言いました。わたしは『ジョンと話して、彼がわたしにそうしてほしいのか聞いてみる』と言い、ジョンもわたしが戻ることを望んだため、復帰し、ジョンがよくなるまで、映画制作を進め、ライトストームを運営することになりました。そして悲しいことに、ジョンはよくなりませんでした」
それが、サンキーニがフルタイムで復帰することになった経緯だ。「実際、本作から完全に離れたことはなかったので、復帰はスムーズに行きました。チームの人々やプロセスは知っていますしね。ジョンの死はわたしたち全員にとって胸が張り裂けるようなものでしたが、チームの皆が立ち上がり、力を貸してくれました。最も重要だったのは、“わたしたちはきっと大丈夫”とチームを安心させることだったと思います。強烈な個性を持ったジョンは本作にとってとても重要な存在で、わたしが復帰した際には、皆に『わたしはジョンにはなれない。彼はユニークで唯一無二の人だから』ということを明確にした上で、『でもわたしにもできることがある。一緒なら、わたしたちはできる。わたしたちはこの映画を完成させて、ジョンに誇り思ってもらうことができる』と伝えました。そして、わたしたちはそうできたと思います」
『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』で再びフルタイムでキャメロン監督と向き合うことになったサンキーニは、「ジムとの仕事は、奮い立たされ、挑戦的で、何か新しく違ったことをすることになると常にわかっている感じです。自分の限界を超え、最終的にはとても誇りに思える映画が出来ると」と明かす。「それは人々が今まで観たことがないようなものになります。スペクタクルで、アクションがあり、素晴らしいビジュアルがあり、そしてたくさんのハートと、素晴らしいキャラクターたちと、エモーショナルなストーリーラインがある。ジムはそうした全ての要素のバランスを取る達人なんです。彼は創造性を持っているのと同時に、映画作りの技術的な要素全てを理解しています。彼のような人には会ったことがありません。ただ並外れているんです」と刺激的なキャメロン監督との仕事について語っていた。(編集部・市川遥)
映画『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』は12月19日日米同時公開


