「教場」風間の廊下のシーン、なぜ多い?

木村拓哉が主演を務める「教場」シリーズの映画版後編『教場 Requiem』が公開中だ。警察学校という閉ざされた空間で繰り広げられる、冷徹な教官・風間公親と生徒たちの対峙。シリーズを通してメガホンをとる中江功監督は、木村拓哉という稀代のスターをいかにして「風間公親」という虚構の存在へと昇華させたのか。その演出の裏側には、計算されたアングルと、現場で生まれた偶然の産物があった。シリーズを象徴する「背中」と「廊下」のシーンに秘められた意図を紐解く。
義眼ゆえの必然と美学 雄弁に語る「背中」の正体
今年元旦よりNetflixで配信中の映画『教場 Reunion』の後編となる本作。ドラマシリーズから今回の映画に至るまで、風間公親という男は多くを語らず、感情を表に出さない。そのミステリアスな存在感を際立たせている一つのカットが、シリーズを通じて多く映し出される木村の「背中」だ。正面からのショットで表情を詳細に映し出すことこそがドラマの定石と思えるが、中江監督の狙いは別のところにあった。観る者の想像を喚起するための空白、それが風間の背中だったのだ。
「表情をじっと撮っていても“読めない”という見せ方もありだとは思うのですが、生徒たちもそうですし、観客に“この人、今どうしているんだろう”と想像力を働かせてもらうには、直接的な表現よりも、敢えて映さない方が興味が湧くのかなと思ったんです。それでどうしても背中のカットが多くなりました。あとは木村さんの佇まいが良かったので、背中を撮りたくなったということもあります」
観客は、風間の背中越しに、彼が見つめる生徒やその先の闇を覗き込むことになる。そこには、役者・木村拓哉が纏う独特の緊張感がある。そしてもう一つ、風間公親というキャラクターを決定づける身体的な特徴も、カメラアングルに必然的な制約と演出効果をもたらしていた。
「風間は右目が義眼なので、そこばかり強調して正面を撮っても、なかなか表現しきれない部分があると思ったんです。その点も、背中からのカットが多かった理由の一つなんです。あとは先ほど佇まいと言いましたが、具体的に言うと立ち姿の美しさですね」
偶然生まれた「足音」の演出 長い廊下が象徴する二つの領域
そんな木村の姿勢の良さが際立つのが、移動のシーンである。『教場』シリーズにおいて、風間が警察学校の渡り廊下を歩く場面が印象的に散りばめられている。無機質で直線的な廊下を、規則正しいリズムで歩く風間の姿。時に俯瞰で、時に足元のアップで捉えられるそのシーンは、物語の転換点や緊張の高まりを無言のうちに告げる役割を果たしている。
中江監督は「最初は、そこまであのシーンを多用しようという意識はなかったんです」と語ると「撮影しているうちに、木村さんが廊下を歩くときの足音が独特なことに気づきました。その音がとても気持ちがいい。それを聞きたいというシンプルな理由が一つありました」とある意味で偶然の産物だったことを明かす。
木村が鳴らす独特の足音。それが中江監督のインスピレーションを刺激し、作品のリズムを作っていった。そして、その廊下は単なる移動経路ではない。教官たちが控える管理側の領域と、生徒たちが生活し訓練を受ける「教場」というサバイバルの場。二つの異なる世界を分断し、同時に接続する象徴的な装置として機能している。
中江監督は「実は、警察学校の廊下は実際にはあそこまで長くはないんです」と打ち明けると「あのすごく長い廊下を見つけたとき“これは使えるな”と思いました。教官たちと生徒たちがいる場所は、同じ建物のなかで、全然違う世界。ちょうど長い廊下が見つかったことで、違いを際立たせることができると思ったんです」と真意を述べていた。
教官室での風間と、教壇に立つ風間。その間にある廊下は、彼が「教官・風間公親」としてのスイッチを入れる場所なのか、あるいは常に冷徹な仮面を被り続ける内面がわずかに漏れ出す空間なのか。象徴的にインサートされる廊下のシーンも、前後の文脈によって、その見え方は変わる……。そんな中江監督の細やかな演出も作品の大きな見どころになっている。
スクリーンに映し出される長い廊下と、遠ざかる背中。そこには、言葉以上の雄弁さで語られる風間公親の孤独と使命が刻まれている。木村拓哉という俳優が作り上げた完璧な佇まいと、それを最大限に活かそうとした中江監督の演出。その共犯関係が、観る者を震え上がらせる「教場」の冷たく美しい世界観を完成させているのかもしれない。(取材・文:磯部正和)


