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「これは自分の物語かもしれない」--投獄覚悟で撮り続けるパナヒ監督の、新作に込めた祈り

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『シンプル・アクシデント/偶然』
『シンプル・アクシデント/偶然』 - (C)LesFilmsPelleas

 イランの名匠ジャファル・パナヒの新作『シンプル・アクシデント/偶然』(5月8日公開)は、単なる最新作ではない。長年にわたり国家と対峙し続けてきた映画作家の、その方法論が極限まで研ぎ澄まされた到達点である。

 本作は第78回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞し、第98回アカデミー賞国際長編映画賞と脚本賞にもノミネートされた。パナヒの評価はすでに確立されているが、本作によってその作家としての位置は改めて国際的に強固なものとなったと言える。しかしその一方で、パナヒはいまなお帰国の自由を持たない。イラン国籍を維持し続けながら、国家との関係は断絶に近い緊張状態にある。それでも彼は映画を作り続ける。『シンプル・アクシデント/偶然』は、イラン当局からの正式な撮影許可を得ることなく、イラン、フランス、ルクセンブルクの共同製作として完成された。

 3月に開催されたアカデミー賞授賞式に姿を見せたパナヒの、あるワンシーンが話題となった。レッドカーペット上で、トランプ支持者として知られる大富豪の実業家ケヴィン・オリアリー(俳優として『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』に出演)が、宝石が埋め込まれたティファニー特注のケースに入れた3000万ドル相当のNBAカード(トレーディングカード)を誇示する姿を、投獄覚悟でイランに戻る意向を表明しているパナヒが見つめていた。

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 パナヒは単に優れた映画監督であるだけではない。「映画を撮ることの意味」「独裁国家と芸術は共存可能なのか」という問いを、自らの身体を通して引き受けている存在なのだ。だからこそ、レッドカーペットのそれは、現在の米国の分断と格差を象徴するだけでなく、映画に携わる者同士のギャップが、あまりにもグロテスクな光景として人目を奪った。

 パナヒの現在地は、きわめて特異だ。彼は亡命を拒否し、「イラン人であること」を手放していない。しかしその国家は彼の作品を禁じ、拘束し、過去に複数回の実刑判決を下し、重い制裁を課している。今回のアメリカの攻撃に対し、公に直接的発言はないが、2025年のイスラエルとの衝突が激化した際には、「暴力の即時停止を国際社会に訴え、迅速に暴力を終わらせるべき」と発言しており、反戦・人命重視である姿勢は変わらないだろう。パナヒは、一貫して国の内部から、体制を変革することを主張している。だからこそ、亡命はせず、拘束されることを覚悟の上で国へ戻ることを望んでいるのである。このように国家に属しながら、その国家と対立する存在であり、このねじれが彼の映画の根幹を成している。

 2025年、ゴールデングローブ賞主催の記者会見で、彼は次のように語っている。「私が抱える問題は、単に映画を作ることではない。私が信じる、そして作りたいと思う映画を作ることだ」「私の目標は、イランを永久に離れて国外で映画を作ることではありません」

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 国家と対立しながらも、そこに留まり続ける。この選択そのものが、パナヒの作品群の条件となっている。

 こうした立場は、イランという環境と切り離しては理解できない。宗教と政治が結びついた権威主義体制のもと、検閲や表現規制、逮捕が日常的に存在する社会において、「作りたい映画を作る」ことは常に制約を伴う。

 パナヒのフィルモグラフィーは、その「制約の歴史」とほぼ完全に同期している。初期の『白い風船』(1995)は、子どもの視点から社会の断面をすくい上げる、イラン・ニューウェーブ的リアリズムの系譜に連なる作品だった。『チャドルと生きる』(2000)、『オフサイド』(2006)では、女性の移動の自由やスタジアム入場禁止といった制度的抑圧を直接的に描き、国家批判のトーンを強めていく。

 しかし、自宅軟禁や撮影禁止という状況下で製作された『これは映画ではない』(2011)、『人生タクシー』(2015)において、彼の映画は決定的に変化する。「撮れない状況」そのものを作品化するメタ映画へと転じたのである。さらに『熊は、いない』(2022)では、国境や監視、うわさといったテーマを寓話的に描き、現実と虚構の境界を揺るがした。直接的な批判から、より抽象的な構造批判へ。その変化は美学的選択というより、状況に対する応答である。

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 小規模制作、非職業俳優の起用、閉鎖空間で展開する物語。さらには戦争映画の企画が当局に阻止された経験から、直接的な戦争描写を回避するという選択。これらはすべて「制約」の産物である。しかし同時に、その制約が映画の形式を研ぎ澄まし、結果として強度の高い批評性を獲得。パナヒにとって映画制作とは、比喩ではなく現実的な意味での抵抗であり、政治行為そのものなのだ。

 パナヒの批判は、国家にとどまらず、映画を取り巻く制度にも向けられる。とりわけアカデミー賞国際長編映画賞の「国別出品制度」に対する問題提起は重要である。同賞では各国につき1作品のみ出品可能であり、選定は各国の公式委員会に委ねられ、さらに一定期間の国内劇場公開が求められる。

 この制度について、パナヒは「我々映画製作者を政府に依存させる唯一の要因は、アカデミーの規則だ」と指摘する。国家代表という形式は、映画と国家の結びつきを制度的に固定してしまう。実際、イラン当局は『オフサイド』の国内上映すら認めなかった過去がある。そのため『シンプル・アクシデント/偶然』はフランス代表としてエントリーされた。近年は亡命作家への柔軟な対応も見られるが、制度が権力構造を補強してしまうという根本的な問題は解消されていない。(※)

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 こうした背景を踏まえると、『シンプル・アクシデント/偶然』が持つ意味はより明確になる。
 本作は、かつて不当に投獄された主人公ワヒドが、偶然の事故をきっかけに、自分の人生を奪った看守と思しき男と再会する物語である。投獄中に目隠しをされていたワヒドはその顔を知らず、男は人違いだと主張する。真相を確かめるため、かつての仲間たちのもとを訪ね、復讐するか否かをめぐる議論が緊張感をもって展開される。

 登場人物の多くは、実在の囚人たちの体験に基づいて描いており、何の罪もない彼らは、ある日突然、「偶然捕まった」という。原題「It is just an accident」は本来、責任回避の言葉である。しかし本作はそれを反転させ、権力が暴力を「偶然」として処理する構造を暴き出す。独裁国家において「偶然」とは、構造の言い換えにほかならない。

 パナヒはこれまで一貫して戦争を直接描いてこなかった。その代わりに描いてきたのは、「日常の中に埋め込まれた暴力」である。本作でも国家間の対立ではなく、暴力を生み出す国内の構造に焦点が当てられる。結果として表現はより間接的になり、同時にメッセージは抽象度を増す。そのことが、作品の批評的強度と完成度を高めている。

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 技術面やスタイル、作風においても、巧みさが際立っている。長回し、固定カメラ、閉鎖空間。とりわけ13分に及ぶワンショットは象徴的だ。『俳優の演技は完璧でなければならず、わずか1、2秒でも欠ければショット全体が台無しになる』と監督自ら語る極限的な条件のもとで撮影されたこのシーンは、観客が単なる傍観者でいることを許さない。ワヒドたちの苦しみと葛藤が、圧倒的な臨場感をもって迫ってくる。

 この感覚は、決してイランという特殊な状況にとどまるものではない。パナヒ自身が語るように、「彼ら(世界中の人々)がこの映画に共感できるのは、過去に同じ状況を経験したか、現在経験しているか、あるいはそれを恐れているからだ」。

 今、世界各地で民主主義は揺らいでいる。「これは自分の物語かもしれない」という予感ーーその感覚こそが、本作が広く受け入れられる理由であり、その核心にあるものなのだ。(今 祥枝)

(※第99回アカデミー賞-2027年開催-に向けた新しい規則では、国際長編映画賞の選考においてパナヒ監督が指摘していた問題を解消しうる「国」ではなく「作品・監督」への授与に変更するなどの大きなルール変更が行われることが2026年5月1日に発表されました。編集部)

『シンプル・アクシデント/偶然』は5月8日(金)より新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町、Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下ほか全国公開

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