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ゴーストライター騒動と佐村河内守、森達也が見た報道の闇(2/4)

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ドキュメンタリー=「真実」ではない

FAKE
ドキュメンタリーの定義について持論を展開する森監督

Q:森監督は「ドキュメンタリーは嘘をつく」という著書を出されていますが、世の中ではドキュメンタリーというジャンルの定義がちゃんとできてないように感じます。

広辞苑には「虚構を用いず記録に基づいて作ったもの。記録小説・記録映画の類。実録」とあり、それが最大公約数的なドキュメンタリーの認識だとは思いますが、それは監視カメラの映像ですよ。情報の断片ではあるかもしれないけれど、作品でもなければ表現でもない。一般の人はテレビのドキュメンタリーを見ても事実だと思い込みます。もちろん事実は事実だけど、それはあくまでも一視点からフレームを区切られた映像であり、あくまでも「誰かが見た事実」でしかない。テレビで同じニュースを扱っていても、局が違えば視点も印象も変わる。新聞もそうですね。朝日と産経のどちらが嘘をついているのかと時折訊かれるけれど、メディアは基本的には嘘はつきません。リスクが大きすぎる。ただし誤報はあります。そして何よりも、それぞれの読者や視聴者などの市場が喜ぶ視点から現象を伝えます。この映画だって別の人が撮っていたら全然違うものになるわけで、そういうことに対するリテラシーが日本人にはあまりにもなさ過ぎるという危惧はあります。

Q:ドキュメンタリー作品に対し、よく「これはドキュメンタリーじゃない、プロパガンダだ」という声が上がることがありますが、森監督に「ドキュメンタリー」と「プロパガンダ」(※特定の主義や思想についての宣伝)の区分けってあるんでしょうか?

ないです。だって表現である限り、ドキュメンタリーはプロパガンダですよ。A』も『A2』も『FAKE』も、あるいは僕が書いた本も、見方を作品で表現しているからプロパガンダです。ただし、豊かなプロパガンダと貧しいプロパガンダがある。プロパガンダそのものは手法でしかなくて、いいも悪いもない。民主主義をプロパガンダすれば間違っているとは言われないけれど、ファシズムをプロパガンダしたらやっぱりまずいってなるでしょう。

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マイケル・ムーア作品はつまらない

華氏911
マイケル・ムーア監督作『華氏911』より (C)Lions Gate / Photofest / ゲッティイメージズ

Q:でも最近は、民主主義とファシズムを善悪でわけることすら難しい時代になってはいませんか?

確かにそうですね。それも含めて相対化されなくちゃいけないんだけど、少なくとも僕は独裁政治より民主主義の方がまだマシだと思っていて、それくらいのことは前提にしたいという気持ちはあります。一部の人が「マイケル・ムーアはプロパガンダだからダメ」だと言うけれど、そんなのは当たり前のこと。ただ僕は、ムーアの手法は撮りながらつまらないだろうなと思っています。現実に翻弄されていないから。例えば『華氏911』(2004)はアメリカ全体がブッシュを支持して「イラクをやっつけろ!」と盛り上がっていたときに、「ブッシュはバカでアメリカは間違っている」と主張したわけです。このメッセージには全面的に同意するけれど、でも映画の手法としては誹謗する側と誹謗される側が逆転しただけで、それじゃテレビがやっている二元化、単純化、矮小化と一緒じゃんって思うわけです。まあでも、だからこそ多くの人がムーアの映画を喜ぶのだけど。

Q:一般にドキュメンタリーは「現実」を描いている、という前提があると思うのですが、森監督の場合は一体何を基準にして「現実」だと言えるのでしょうか?

自分の感覚です。現場で自分が思ったこと、感じたこと、訴えたいと思ったことは絶対に裏切りたくない。例えば僕は感じたことを映像で伝えるために、モンタージュも含めていろんなテクニックを使います。その手法自体はドラマもドキュメンタリーも変わらない。でも自分が感じたことを裏切ったら作る意味もなくなるし、作品としてもつまらなくなる。僕は今もテレビ・ドキュメンタリーが好きですけど、もう復帰できないかもと思う理由は、今のテレビでは視聴率やスポンサーへの配慮ばかりが優先されて、客観的であるべきとの理由で自分を出すことが許されないから。でもそれこそフェイクです。映像は絶対に主観なんです。

Q:テレビでは「報道の公正さ」について議論されていますよね。

日本のテレビや新聞などメインストリーム・メディアの問題は、「公正・中立・客観・不偏不党」っていうドグマを抱えてしまったことだと思います。「事実などは存在しない。解釈だけだ」と言ったのはニーチェだけど、これはメディア論にも適用できる。情報には必ず主観が入るんです。ところが日本のテレビや新聞は、何かあったときの自分たちのエクスキューズとして、中立や客観などを掲げてしまった。だからこそ高市早苗総務相から、「公平性を欠くテレビ局は電波を停止する」と脅されても反論できなくなる。一つ一つの記事や番組が公正じゃないのは当たり前で、「いろんな人の主観で記事や映像は作られる、そういう多種多様な視点が現出して交錯することで初めて校正な言論空間が担保される」って言い返せばいいだけのことなのに。

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