氷の女王アナ・ウィンター、9つの秘密

映画に見る憧れのブランド

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アナ・ウィンター
Mike Coppola/Getty Images for People.com

 1949年11月3日ロンドンで生まれた米ヴォーグ誌編集長のアナ・ウィンター。メットガラへの貢献を認められて、2014年、メトロポリタン美術館のコスチューム・インスティトュートは、アナ・ウィンター・コスチューム・センターと名づけられ生まれ変わりました。さらに2017年には、英国バッキンガム宮殿でエリザベス女王からデイムの称号を授与されるなどファッション界の女王と称されていますが、彼女の人物像には賛否両論があります。それはなぜなのか? 今回は、9つの秘密と共にアナについて迫りたいと思います。

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1:悲劇に見舞われた幼少時代

 イギリスの夕刊紙イブニング・スタンダードの名編集長の父リチャードと母エレノアのもとに生まれたアナ。熱烈に愛し合って結婚したリチャードとエレノアでしたが、アナが2歳のとき、まだたったの10歳だった長男を交通事故で亡くします。このときに、仕事中だったリチャードがエレノアのところへすぐに駆けつけず、仕事を続けたことが原因で、2人の仲は不穏なものに。その後も家庭の雰囲気は冷ややかなものだったのだとか。

 大のお父さんっ子だったアナは父親にあまり構ってもらえず、内気な引っ込み思案の性格もあり学校に友達もほとんどできなかったそうです。後年、感情を見せない冷徹な氷の女王と呼ばれた所以は、この不幸せな幼少時代が原因かもしれません。

2:美意識が高すぎる少女

 今年68歳になるとは信じられないほどの美しさとスリムな身体を維持するアナ。小さなころから美意識が高く、中学生のときは陸上部に所属しランナーとしての将来を嘱望されていましたが、「ぞっとするわ!どんな脚になるかわからないじゃない」(※1)と、体形が崩れるのを気にして体育の授業も休むほどだったのだとか。また、14歳のころから高タンパク質低糖ダイエットに励み、頭皮ケアサロンやフェイシャルサロンに通いつめていたそう。

アナ・ウィンター
先日行われたCFDA / Vogue Fashion Fund 15th Anniversary Eventでのアナ。見事なスレンダーボディーで数々のドレスを着こなします - Roy Rochlin / Getty Images

 賢かったものの勉強が大嫌いで学校もしょっちゅうサボっていたという青春時代は、『マイ・ジェネレーション ロンドンをぶっとばせ!』(2019年1月5日公開)が描く1960年代そのもの。英国のストリートカルチャー、スウィンギング・ロンドンが世界を席巻しており、労働者階級から生まれたザ・ビートルズ、モードをオートクチュールからプレタポルテに移したマリー・クヮントのミニスカート、避妊用ピルの解禁によるセックス革命……。既存文化と若者文化がぶつかり合い新しい時代が幕開けていたロンドンで、学業に身が入らないのも当たり前のような気がしますが、アナが自由奔放でいられた理由には両親の不仲や放任主義がありました。

 彼女が15歳のころ、ケンジントン区の上流階級住宅地に瀟洒(しょうしゃ)な邸宅を構えたウィンター家。アナは両親から自立した生活を送ろうと、屋敷の中に自分専用のフラットを手に入れます。洗練されたファッションとミステリアスな美貌で多くの男性を夢中にさせたとか。

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3:ファーザーコンプレックスの持ち主!?

 多忙な父が恋しかったせいか、年上の男性ばかりと付き合うようになったアナ。恋人たちにはファッションフォトグラファーやジャーナリストなどが多く、アナは学校へ行かず、彼らから撮影やスタイリングについて学びます。このころから編集能力の高さには定評があり、恋人のジャーナリストにアドバイスしていたほど。

アナ・ウィンター
いくつになってもファーが好きっ! - Slaven Vlasic / Getty Images

 そして、当時ロンドンで大人気だったブティック・ビバで店員のアルバイトを始めます。1960年代のビバは階級を問わず幅広い層に支持されており、アナはそこでブティックビジネスを貪欲に学びました。まだ16歳なのにファーコートをエレガントに着こなしていたのだとか。現在でもアナのファー好きは有名ですが、ティーンのときからまとっていたとは!

 17歳の誕生日の目前、アナは制服のスカートが短すぎることを校長にひどく叱られたことが原因で高校を退学しました。

4:氷の女王は昔から!?

 時は1970年。1970年代のディスコカルチャーを描いたジョン・トラボルタ主演の『サタデー・ナイト・フィーバー』(1977)やライアン・フィリップ主演の『54 フィフティ★フォー』(1998)に映し出される狂乱のディスコブームが始まりました。

プラダを着た悪魔
『プラダを着た悪魔』より - 20th Century Fox / Photofest / ゲッティ イメージズ

 19歳のアナは父親の口ききで現ハーパーズ・バザー誌であるハーパーズ・アンド・クイーン誌でファッション・アシスタントのキャリアをスタートさせます。まさに『プラダを着た悪魔』(2006)のアン・ハサウェイが演じたアンディのようなポジションに就いたのですが、この頃からニコリともせず、高級ブランドのデザイナーに「ここには何もないわ」と言い放つ率直すぎる態度を見せていたのだとか。アンディというよりはすでに鬼編集長ミランダのよう……。

 彼女の用意周到な仕事ぶり、意欲や貪欲さには誰も敵わず、トップの座を狙っているのが全身から伝わったそうです(※1)。 

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5:雑誌社を解雇される!?

 1975年、ハーパーズ・アンド・クイーン誌のファッション・エディターのポストが空きますが、後任につくことができなかったアナは同誌を辞職し、ニューヨークへ引っ越します。目標はいつか米ヴォーグ誌の編集長になること。さりとて、若干25歳のアシスタントが簡単に編集長になれるわけでもなく、まずはハーパーズ・バザー誌のジュニア・ファッション・エディターとして就職します。1867年の創刊以来、グラフィック界を牽引してきた同誌で働くことはアナにとってはステップアップでした。しかし、アナのもつエッジィなセンスはアメリカのファッション誌とは合わず、わずか9か月で解雇されてしまいます。

 1976年の終わりにはビバ誌のファッション・エディターに。そのころまだアメリカでは有名でなかったイッセイ・ミヤケを発掘するなど、先見の明を見せ付けました

6:自腹を切ってファッションページを作る!?

アナ・ウィンター
1980年代同時のアナはこんな感じ!ボブはこの頃から健在 - Robin Platzer/Images/Getty Images

 1979年、ビバ誌が廃刊され、その翌年アナは創刊されたばかりの雑誌「サヴィー」のフリー・エディターになります(※1)。この雑誌は予算もほとんどなかったのですが、アメリカのファッション界に変革を起こすという野望を抱いていたアナは、祖母から受け継いだ莫大な遺産を使い、ヘルムート・ニュートンら一流のフォトグラファーや旬のモデル、贅沢なロケーションを選んで斬新なファッションページを作り上げ、他誌と差をつけます

 それが功を奏したのか、1981年、アナはヴォーグ誌と同じくらいの権威を誇る週刊誌「ニューヨーク」のファッション・エディターに採用されました(※1)。ファッションとライフスタイルの記事の業務を一人でこなせる人材だと期待されたアナは、その期待に見事応えてシニア・エディターの座にのぼりつめます。そして、ついにヴォーグ誌からのオファーを射止めたのです。

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7:サングラスの謎

 1983年、34歳のとき、アナは米ヴォーグ誌のクリエイティブ・ディレクターに就任。当時の編集長ミラベラが築いた体制に変革を巻き起こそうとしたアナは、当然のごとくミラベラと険悪な仲に。その様子をおもしろおかしく書き立てるために、マスコミはアナを追いかけ回すようになりました。

アナ・ウィンター
トレードマークのサングラスにはいろんな噂が…… - Theo Wargo / FilmMagic / Getty Images

 ちなみに、マスコミによく取り上げられるアナのサングラスですが、室内や打ち合わせにもかけている理由をご存知でしょうか? “イメージ作り”“自分に自信がないのを隠すため”などと言われることもありますが、実は、アナの家系には遺伝性の目の病気があり、目を守るためにサングラスをかけているという説も。

 ヴォーグ誌の主力である米編集長のポストを心の中では切望していたアナですが、ちょうど英編集長のポストが空き、1986年に就任します。

8:ファッションとセレブを一体化させた

 この時代、英ヴォーグ誌の読者層は年配のマダム。そこに社会進出した若いキャリアウーマンたちを取り込もうと、アナは雑誌の方向性を変えようとします。エクササイズ、キャリア、お金のトピックスを入れたかったアナは、インテリ記事重視の編集部と衝突するように。

 英ヴォーグ誌のベテランファッション・エディターだったグレース・コディントンもその一人で、彼女はとうとう辞職してしまいます(※3)。しかし、アナが1988年に米編集長の地位をつかみとった後は、自らアナの元へ戻り、現在でもアナの片腕として働いています。そんな彼女の伝記を映画化した『ファッションが教えてくれること』(2009)に見るアナの仕事ぶりは、迫力満点。エディターやフォトグラファーが苦労して作り上げたページでも、彼女の価値観に合わないものはバッサバッサと瞬時に切り捨てます。その確固たるリーダーシップがあったからこそ改革を可能にしたのでしょう。

ファッションが教えてくれること
アナの仕事ぶりが見られるドキュメンタリー映画『ファッションが教えてくれること』より - Photofest / Roadside Attractions / ゲッティ イメージズ

 1988年11月号のアナの初めての表紙は、モデルにデニムを履かせ、クリスチャン・ラクロワのジャケットを組み合わせたもの。ハイファッションとストリートを融合させたミックススタイルデニムをモードに格上げした画期的な出来事でした(※2)。

 また、1990年代前半はハリウッドスター、ミュージシャンやヨーロッパの王族だけではなく、ファッショニスタや政治家までもがパパラッチに追いかけられるようになり、セレブとして世間から注目を集めるようになった時期。いち早くセレブの役割を見抜いたアナはヴォーグ誌にセレブ、アート、ビジネス、テクノロジー、旅行、グルメ、政治のテーマを取り込み、同誌を先鋭的なファッション誌にすることに成功しました(※1)。

 メトロポリタン美術館の服飾部門が開催する、春の企画展のオープニングパーティーである“メットガラ”の舞台裏を描いたドキュメンタリー『メットガラ ドレスをまとった美術館』(2016)では、アナが責任者として意思決定をするプロセスが明らかに。どのセレブを招待し、誰の隣に座らせるかといった席順でさえも、セレブカルチャーを取り巻く様々な要素を把握している彼女だからこそできる決断なのです。

ケイティ・ペリー
今年のメットガラで注目を集めたケイティ・ペリー - Dia Dipasupil / WireImage / ゲッティ イメージズ

 加えて、現在「ヴォーグ・ファッションズ・ナイト・アウト」として毎年開催されているイベントも、1990年代にアナがその前身を思いついたもの。このイベントは2009年以降の大不況の中でもファッションの消費活動を活性化し、アナはファッション業界を動かす存在となりました(※3)。

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9:『プラダを着た悪魔』にはカンカンだった!

 『プラダを着た悪魔』の原作者であるローレン・ワイズバーガーは実際にアナのアシスタントとして1年間足らず働いていました。ですが、当時のことを知るマネージング・エディターによると、ワイズバーガーは文句も言わず幸せそうに働いていたのだとか。ニューヨーク・タイムズ誌には「読むのを楽しみにしているわ」とさらりと言ってのけたアナですが、本当はワイズバーガーに利用されて嫌がらせを受けたとカンカンに怒っていたのだそう。けれども、この小説や映画のおかげでアナの名は世界中に知られたのでした(※1)。

プラダを着た悪魔
『プラダを着た悪魔』より - 20th Century Fox / Photofest / ゲッティ イメージズ

 「氷の女王」「核爆弾のアナ」などと呼ばれ、マスコミから大バッシング受けたこともあるアナ・ウィンター。もし彼女が男性編集長だったらこのような辛らつなニックネームをつけられたり、ゴシップの的になったりするでしょうか……? 社会が求める“女らしさ”から逸脱した決断力と実行力をもつアナのような女性は、その業績に関わらず批判の対象になってしまう……。アナ・ウィンターは単なるファッション・アイコンではなく、“働く女性の先駆者”なのです。

【参考】
※1…中央公論新社『Front Row ファッション界に君臨する女王の記録 アナ・ウィンター』ジェリー・オッペンハイマー著 川田志津訳
※2…Thirty years at Vogue: how Anna Wintour changed the way the world gets dressed - The Guardian
※3…SPECIAL SHOWER BOOKS「グレース ファッションが教えてくれたこと」グレース・コディントン/マイケル・ロバーツ著

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此花さくやプロフィール

此花

 映画ライター。ファッション工科大学(FIT)を卒業後、「シャネル」「資生堂アメリカ」のマーケティング部勤務を経てライターに。アメリカ在住経験や映画に登場するファッションから作品を読み解くのが好き。
Twitter:@sakuyakono
Instagram:@sakuya
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