なぜ主人公はサルなのか? 映画『BETTER MAN/ベター・マン』が破った常識
文・湯山玲子
なぜ人はエンタメを求めるのか?

「人はパンのみに生きるにあらず」旧約聖書に記載されているこのキリストの言葉は、人間は、物質だけではなく、精神的にも満たされることを求めて生きる存在であるという意味だ。
キリスト教文化圏では、そのことが堂々とアートやエンターテイメント表現の根本思想にある。そして、イギリスの国民的スター、ロビー・ウィリアムスの伝記映画である本作は、「ああ、エンタメって、ザッツ芸能界ではなく、人間が一生かけて追求し、本当に多くの人々の人生の助けになる偉大な存在なのだなあ」という想いが、感動ドラマの中にしみいってくるような、世にも稀な作品となった。
スターを描く作品は、大概がスターならではの孤独、人間関係の困難さ、自分自身と虚像とのギャップというこの3点セットを軸に展開するのが大半だが、本作は、どうしても紋切り型になりやすいセリフに修辞的なセンスを入れ込んで、人間というものの本質に思い至らせてもいる。
ちなみに、第二次世界大戦の敗戦国であるドイツは、戦後、芸術文化予算に大きく予算を割いた。一方、我が国では鹿鳴館の昔から、芸術表現は欧米列強にと肩を並べるための教養必須科目であり、一方、エンタメは“推し”、というファン心理に見られるような快楽消費としての存在が目立つ。どちらが良い悪いの問題ではないのだが、この作品に込められたエンタメと人間性との抜き差しならぬ関係性に関してのド直球さは、みんながアーティストとして気軽に発信できるSNS時代だからこそ、強力に意味を放つ。
ミュージカル映画をリアル時代に周到によみがえらせた男

監督のマイケル・グレイシーは、オーストラリア出身という出自や、1976年生まれという年齢からしてみても、ビデオやゲームという2次元に親しんできたはずなのに、世界中でヒットした前作『グレイテスト・ショーマン』に続き、またしても、ステージエンターテインメントの世界に挑戦した。
彼の凄い点は、その世界観を伝えるに当たって、エンタメの一大ジャンルであるミュージカル手法をもの凄い熱量と周到さでもって導入しているという点。映画でもってエンタメの大肯定を描くのならば、そのジャンルの歴史的成果を使わなきゃ、ダメでしょ! って、どれだけ真面目なんだかという話だ。
そのハイライトが、リージェント・ストリートでロケ撮影された長尺のミュージカルシーンである。イギリス王室の関連資産であり撮影許可が極めて難しい道路を封鎖して、500人が行き交い歌い踊るこの場面は、スピーディなカメラの動きや、それに合わせた的確な役者のムーブメントで見応え充分。ミュージカル表現の課題だったリアルとの継ぎ目を解決し、YouTubeでの路上フラッシュモブ由来のストリートセンスでもって新風をもたらしたのは『ラ・ラ・ランド』だった。が、本作はそのバトンを受け継ぎ、よりダイナミックかつ音楽とのシンクロもバッチリな名場面を創り上げている。
「サル」が主役、型破りな挑戦の真相は?

さて、本作の最も重要なポイントは、よりによって主人公の外見がサルだということ。コメディや子供向けファンタジーではない伝記映画においては、とてつもなく違和感のある設定だが、これは監督が映画のためウィリアムス本人に取材した折りに、幾度となく自分のことをサルと自嘲するのを耳にして思いついたアイデアだという。とはいえ、サル外見の主人公に果たして観客が付いてこられるか? といったら良識ある関係者ならば、即座にノーだろう。
しかし、一方で監督がこの案に踏み切った理由も想像できる。というのは、スター伝記映画(特に音楽系)に必ずついて回る「やっぱ本物とは違う」という冷めた目線の存在だ。実は私もそのクチで、役者のスキルと歌唱がスター本人とそっくりならばモノマネに見えるし(ぐっさん参照のこと)、そうでないなら、役柄よりも、役者本人の能力と個性に思えてしまうんですよ!
違和感の反面、思い切って主人公をサルにしてしまうメリットもある。それは「彼は凡人とは違っている」という、生まれながらのスターの特質を、どの場面においても表現できてしまう点で、観客の持つ「何でこの男がスターになり得たの?」という物語への没入を阻害する想いは、皮肉にもサル外見によって、一掃されることになるのだ。
まあ、そこのところは、サルの表情のリアルさに一手にかかってくるが、本作はおそるべき技術力でそこをクリア。アップのセリフも多いのに違和感を感じさせないのには心底驚いた。アイデアにしっかり責任を取るという、言うがやすし、行うのに難しの有言実行、なのであった。
国内流通アーティスト?ロビー・ウィリアムスと音楽がつなぐ世界

さて、欧米のショウビスでは、スターはすなわちワールドワイドな存在というのが当たり前だが、ロビー・ウィリアムスはイギリス国内で莫大な人気と知名度を誇る国内流通アーティストというところが面白い。イギリスはビートルズを始めとしてクィーン、オアシス等のグローバルなスターを産出する一方で、日本のように圧倒的に国内消費度が高いアーティストが存在するのだ。そのあたりの文化背景は、パブやライブハウスを中心に活動する売れないミュージシャンである父親を通じてきっちりと描かれていく。
自由業という職種の通り、家庭を放棄し、こどもの心に傷を負わせ、仲間と気ままに人生を送る彼のような土着のエンターテイナーが、実力とともに山ほど存在すると思われるのがイギリスの音楽文化。大衆音楽のベースがメディアと芸能界にしかない日本と違いって、仕事帰りにライブハウスに立ち寄るようなライフスタイルが確立している伝統のもとで、芸人や音楽家たちの存在とそのリスペクトがきちんと描かれるからこそ、主人公がラストに到達するエンタメスターの境地と世の中に対しての「お役目」が際立ってくるのだ。
自己承認欲や才能だけでは、人々の心の琴線に触れるような表現をこなし、それを継続していくようなスターにはなれない。SNSで皆が気軽に発信でき、フォロワーを集めることができる時代においてこそ、この作品に充満している歴史を通じてのエンターテインメントの役割とスターの存在意義は非常に強い光を放つ。
ちなみに、これはもう私の妄想だが、監督の作風の中には、20世紀初頭に絢爛豪華なショウで一世を風靡した、フローレンツ・ジークフェルド・ジュニアや、美的でセクシーなナイトクラブショウで名高いバリのクレイジホースの創始者、アラン・ベルナルダン、ローリング・ストーンズやU2のステージデザインを手がけたマーク・フィッシャーらの影がちらつく。彼らはみな一期一会のライブショウにクリエイティブを発揮した人たちで、そのエンターテイメントの輝かしい殿堂に今回、『BETTER MAN/ベター・マン』が名を連ねた事には間違いがないのだ。