『国宝』吉沢亮の化粧シーン、なぜ多い?映画オリジナルシーンはこうして作られた

吉田修一の小説を吉沢亮主演、横浜流星共演により映画化する『国宝』(公開中)のメガホンをとった李相日監督。原作は文庫本で上下巻の長編だが、李監督が「小説のダイジェストにはしたくない」との思いをもって映画化した本作には、原作にないオリジナルのシーンが多々登場する。その裏側を李監督が語った。(※一部ネタバレあり)
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物語の舞台は、戦後から高度経済成長期の日本。極道の息子として生まれ、抗争によって父を亡くした後、上方歌舞伎の名門の当主・花井半二郎に引き取られた喜久雄の50年の軌跡を追う。女形として類まれな才能を持ちながら歌舞伎の世界で不可欠な「血筋」を渇望し、葛藤する喜久雄に、李組初参加となる吉沢亮。半二郎の実の息子として将来を約束された御曹司・俊介に、李監督と『流浪の月』(2022)以来のタッグとなる横浜流星。歌舞伎界のスターで喜久雄と俊介を厳しく育てる半二郎を、李監督と『許されざる者』(2013)、『怒り』(2016)に続いて3度目のタッグとなる渡辺謙が演じる。
李監督にとって、吉田修一作品の映画化は『悪人』(2010)、『怒り』に続き3度目。前2作では自ら脚本も手掛けているが、本作では監督に専念し、奥寺佐渡子が脚本を担った。そこにはどんな意図があったのか。
「原作の情報量、ボリュームのすごさ。いわゆるダイジェストになってしまうのは何としても避けたかったので、どう映画用に組み直せるかと考える時に、脚本家に立っていただいて、なるべく自分が俯瞰して見られる状態にしておきたかった。それに、奥寺さんは前々から一度組んでみたい方だったんですね。奥寺さんは相米慎二監督の作品(『お引越し』(1993))でデビューされて、奥寺さんが一緒にやっていらっしゃった成島出監督ともご縁があって、ずっと注視していたんです」

映画では喜久雄と俊介の関係に焦点を当てるため、二人を取り巻く人物たちのエピソードを取捨選択しつつ、オリジナルのシーンを追加している。前半では喜久雄の少年時代に父(永瀬正敏)が殺される場面で、その場に居合わせた半二郎が喜久雄を守ろうとするシーンや、半二郎の代役を担う恐怖と緊張に震える喜久雄の化粧を俊介が手伝うシーンなどがある。特に後者は、血筋が欲しい喜久雄と才能が欲しい俊介の葛藤を際立たせるエモーショナルなシーンに仕上がったが、喜久雄の化粧のシーンが数多く登場する理由を、李監督はこう語る。
「ほぼ無意識でしたが、あの白粉の白さや紅の赤みは強烈なイメージとして脳内に焼き付いていました。歌舞伎に限らず、映画の撮影でも俳優によってはメイクをしている最中に自分をどんどん削ぎ落としていくこともあるので、そうした変容していく瞬間というものに興味があったのかもしれないですね。ほぼ毎日舞台に上がる喜久雄の人生はいわばその連続だったと思うんです。絶えず他の何かに変わり、突き詰めていく。しかも歌舞伎の場合、役者が自分で化粧をするので日常の一部になっている。例えば、歌舞伎役者さんの写真集などで化粧にまつわるシーンを見た時、何とも言えない美しさがあって、同時に何か見てはいけないものを見ているような感覚を覚えました」
喜久雄が女形の道に一層没頭するきっかけとなったのが、少年時代(黒川想矢)に人間国宝・万菊(田中泯)が舞った「鷺娘」に衝撃を受けたこと。この時の喜久雄の心象風景は紙吹雪と火花で表されているが、これは原作にはない描写で、この後も喜久雄の恍惚の瞬間を表した映像が随所に差し込まれている。
「火花に関しては若さも意識したかもしれません。吉沢くんが演じた喜久雄では使っていないので。そうした感情の元となったのは、原作にもあった雪のイメージです。少年時代に父親が殺された時に降りしきる雪、あの一瞬が彼の中での恍惚の種になる。後半の演目で『鷺娘』を選んだのも、雪(紙吹雪)が効果的な演目であることにも連なっています。雪、紙吹雪ときて最後、何に変容すると違う世界に誘えるのかと、CG部と何度も何度もやり直した結果、非常にシンプルな、美しい空気感を表現できたと思っています。喜久雄が見たかった風景、最後に訪れた恍惚の瞬間は、おそらく万菊にもあり、その景色はもしかしたら俊介も最後の最後に見たかもしれない、そう思えてなりません」

吉沢が歌舞伎の稽古を積み、吹替えナシで演じ切った「二人道成寺」「曽根崎心中」「鷺娘」などの歌舞伎シーンもさることながら、きらびやかなスポットライトの当たらない喜久雄を捉えたシーンも圧巻だ。類いまれな美貌、才能を兼ね備えながらも「血筋」を持たない喜久雄は、やがて決して抗うことのできないその事実に苦しむこととなる。特に、人生のどん底に落ちた喜久雄が地方のホテルの屋上で心身ともにボロボロになりながら舞い続ける姿には、何とも言えない哀愁が漂う。原作にはないオリジナルの本シーンを取り入れた経緯について、李監督はこう振り返る。
「歌舞伎でしか生きていけない、芸と切り離せない人生がここにあるんだ、と。化粧が剥げながら踊るイメージは割と早い段階からありました。『祇園祭礼信仰記』という演目があるんですが、父の復讐に失敗した雪姫が桜の巨木に捕縛され、逃れようと桜吹雪舞い散る中で踊るようにもがく場面があります。雪姫の執念から、桜の花びらが鼠に変貌し、その鼠たちが姫を縛る縄を噛み切る、という奇想天外な仕掛けなのですが……妙に印象に残っていまして。結果的には全く違うシーンが生まれたわけですが、発想の源泉のひとつかもしれません」

本シーンを撮影する中で、喜久雄という人物像に新たな気付きもあったという李監督。
「初めはもう少し死の匂いを意識していました。喜久雄が舞っている最中に落ちて死んでしまうのではないか、あるいは死んでもいいと思って飛び降りてしまうのでは……そうしたイメージを抱いてロケハンしながら、ビルのベランダや屋上などの危うい場所を絞り込んでいきました。ただ、実際に撮影が近づくにつれ、逆にしがみつくんだと思うようになった。喜久雄が歌舞伎から離れられないのか、歌舞伎という存在が喜久雄から離れられないのか。両者が離れがたく結びつくことによって獣が生まれていくという、凄みがありつつも哀しみが溢れるシーンにしたいと思っていました」
予告編にもあるシーンだが、喜久雄は神社で手を合わせたあとに「神さまと話してたんとちゃうで。悪魔と取引してたんや」とつぶやく。その言葉通り、人生の全てを女形の道に捧げた喜久雄が最後に得るものは何なのか。スクリーンで観てこそ凄みが伝わる、原作と異なるラストシーンも見ものだ。(取材・文:編集部 石井百合子)