『告白』の中島哲也監督、8年ぶりの新作は"驚くほど素直な祈り"だった 残酷なまでに誠実な傑作『時には懺悔を』

「この子は生まれてこないほうが幸せでした」──劇中に置かれたこの一言を、観客は二時間かけて自らの手で覆すことになる。『下妻物語』『告白』の中島哲也監督が、原作との出会いから十八年の歳月を経てようやく形にした『時には懺悔を』は、そういう映画だ。打海文三が障がいのある息子を育てた自身の経験をもとに書いた「映像化不可能」と言われたミステリーを、監督は逃げも飾りもせず、正面から引き受けた。
物語は一人の探偵の死から始まる。「死んだほうがマシな人間」とまで呼ばれた男・米本(佐藤二朗)。その死の真相を追う一匹狼の探偵・佐竹(西島秀俊)と、助手見習いの聡子(満島ひかり)は、調査の果てに九年前の新生児誘拐事件へとたどり着く。連れ去られたのは、重い障がいを抱えて生まれた少年・新。そして今、新とともに静かに暮らしているのが、宮藤官九郎演じる明野である。
この宮藤官九郎が、凄まじい。息子の体温も、好みも、痛みの出し方も、誰よりも知り尽くした男。他者との接触を断ち、介護に明け暮れる日々の澱が、その背中に、指先に、視線の置き場に沈殿している。演技という言葉ではもう足りない。あれは佇まいだ。台詞で説明される過去よりも先に、その存在そのものが九年間の重さを語ってしまう。喜劇人としての顔を知る観客ほど、この唯一無二の凄みに撃たれるだろう。スクリーンに映っているのは俳優ではなく、一人の父親の生活そのものだった。
中島哲也監督の演出は、相変わらず容赦がない。登場人物たちの人間性を繊細に、そして残酷に、じわじわとあぶり出していく手つきは健在だ。だが、その刃の向かう先が違う。かつての中島作品において、容赦のなさは人間の悪意を暴き、観客を突き放すために振るわれた。本作では同じ鋭さが、罪を抱えた者たちを裁くためではなく、彼らが赦しにたどり着くための道を切り開くために使われている。家族から目を背けた男。娘に捨てられた女。子を生きる糧にした男。産んだ子を愛せなかった女。誰もが心の奥底に沈めた罪を抱え、その蓋を、監督は一枚ずつ、指先で剥がすように開けていく。観ていて痛い。目を逸らしたくなる瞬間が何度もある。しかしこの残酷なまでの誠実さこそが、物語に揺るぎない真実味を与え、同時に、終盤に訪れる感情の奔流──ドラマチックなカタルシスへの助走になっている。痛みを省略しなかったからこそ、救いが嘘にならないのだ。
そして本作の心臓部には、新という小さな命がいる。「生きているのが奇跡」と言われた子ども。安易な感動の材料として消費されるのではなく絶望の淵に立つ大人たちの心を動かす、光の源として描かれることに、この映画の倫理がある。スペシャルニーズ(=障がいなどにより特別な支援を必要とする)のある出演者とその家族が実際に撮影に参加した現場の空気は、フィクションの中にドキュメンタリーのような手触りを持ち込み、綺麗事の一切を拒む。だからこそ、凍りついた大人たちの心が新の前で少しずつ融けていく過程が、御都合主義ではなく、確かに起こり得る奇跡として胸に迫る。
誤解のないように言えば、この映画は誰も劇的には救わない。罪は消えないし、失われたものは還らない。ただ、それぞれに過去を抱えた大人たちが、ほんの少しだけ救われる。その「少し」の重さを、中島哲也監督は知っている。西島秀俊(佐竹役)が抑えた芝居の奥に軋ませる自責、満島ひかり(聡子役)が体現する情の深さゆえの危うさ、黒木華(民恵役)が沈黙に込めた翳り、片岡鶴太郎(舟尾役)が飄々とした背中に滲ませる哀感、そして役所広司(寺西役)が寡黙な佇まいに宿らせる、傷ついた者たちを見守る懐の深さ──豪華な名の連なりが看板ではなく、群像の血肉として機能しているのは、全員がこの「少しの救い」の意味を分かって演じているからだろう。
人間の業を、時に毒を効かせた鮮烈なスタイルで描いてきた監督が、十八年かけてたどり着いたのは、驚くほど素直な祈りだった。人は間違える。取り返しのつかないことをする。それでも、どんな命にも生まれてきた喜びがあると信じたい──その願いを、感傷ではなく、痛みの積み重ねの果てに差し出してくる。
劇場を出たあと、すぐには言葉が出ない。けれど、夜道を歩きながらふと気づくはずだ。冒頭のあの一言を、自分がもう信じていないことに。誰もが、誰かの光になり得る。その当たり前のようで途方もない事実を、この映画は二時間かけて、静かに、しかし決定的に証明してみせる。懺悔とは過去に跪くことではなく、もう一度顔を上げるための儀式なのだと──そう思わせてくれる、まぎれもない傑作である。(編集部:下村麻美)



