私生活をこじらせすぎたマリリン・モンロー、死までの50日間

幻に終わった傑作映画たち

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幻に終わった傑作映画たち 連載第1回

ジョージ・キューカー監督×マリリン・モンローの『女房は生きていた』前編

女房は生きていた
Poster Designed by Simon Halfon 『女房は生きていた』のフェイクポスター

 映画制作とは、幾重もの要素が複雑に積み重なって成り立つ。その舞台裏を考えれば、実際に一つの作品がスクリーンにかかるだけでも奇跡と言えるだろう。一方で、当然のことながら多くの作品が映画制作のプロセスにおいて、理由はどうあれ途中で挫折し、たいていは惜しまれも、顧みられもせずに忘れ去られていく。だが、そんな作品たちのなかにも、完成されなかったことが悔やまれるものがある。もしも、スタンリー・キューブリックが企画していた大作伝記映画『ナポレオン』を、スティーヴン・スピルバーグがダークなエイリアン侵略映画『ナイトスカイズ』を完成させていたとしたら? その後の映画史は変わったかもしれない。

 本連載「幻に終わった傑作映画たち」では、“幻の傑作たち”が、なぜ未完に終わったのかを明かしていく。それは、あり得たかもしれないもうひとつの映画史を表している。才能あるアーティストたちによるフェイクポスターが、あなたの想像を無限に拡げてくれることだろう。

 連載第1回は、マリリン・モンローが死の直前まで関わっていた『女房は生きていた』。モンローは35日間の撮影中、12回しか姿を見せなかった。そのうち使用可能な映像は、わずか7分半。名だたる女優たちからの信頼も厚く、女性映画の名手と言われたジョージ・キューカーでさえ、この映画を救うことはできなかった。しかし、心身を壊してもなお、スクリーンのモンローは輝いていた。

『女房は生きていた』作品情報

原題:『SOMETHING'S GOT TO GIVE 』

監督:ジョージ・キューカー

想定公開年:1962年

出演:ディーン・マーティン、マリリン・モンロー、シド・チャリシー

製作国:アメリカ

ジャンル:ロマンチック・コメディ

スタジオ:20世紀フォックス

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映画の死亡宣告までの50日間ーわずか7分半のマリリン・モンロー

マリリン・モンロー
体調不良と被害妄想に悩まされたマリリン・モンロー Gene Lester / Getty Images

 1962年、20世紀フォックスはピンチに陥っていた。ジョセフ・L・マンキウィッツの超大作『クレオパトラ』——および主演のリチャード・バートンとエリザベス・テイラーのソープオペラそこのけの不倫騒動——の収拾がつかなくなり、製作費は前代未聞の4,400万ドルという回収不能な額に膨れ上がる。それに比べれば『女房は生きていた』は、そこそこ低予算でそこそのヒットも見込めるものとみなされていた。1940年に製作されたスクリューボール・コメディ(ロマンチック・コメディの1種)『ママのご帰還』をリメイクしようという企画だった。

 この作品は、アルフレッド・テニスン卿の悲劇的な物語詩「イノック・アーデン」(岩波文庫)をコメディ調にアレンジしたもので、興行的にも成功し、第13回アカデミー賞で原案賞・作曲賞・美術賞にもノミネートされている。リメイク版の監督に選ばれたのは、ベテランのジョージ・キューカー。主演には、シド・チャリシー、ディーン・マーティン、そしてこの頃、日に日に扱いが難しくなっていたマリリン・モンロー。キューカーは1960年の『恋をしましょう』でモンローと組んだ経験があり、おそらく自分が何に首を突っこむことになるか、わかっていたはずだ。だが『クレオパトラ』の大がかりなローマのセットで繰り広げられたドタバタの、さらに上を行く劇的な展開になろうとは、誰も予想していなかった。

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“このままではいけない”のに無理やり進めた20世紀フォックス

マリリン・モンロー
別れた夫、劇作家のアーサー・ミラー(左)とマリリン・モンロー。中央はプロデューサーのフランク・E・テイラー Ernst Haas / Getty Images

 マリリン・モンローの役どころは、2人の子持ちの若奥様エレン・アーデン。エレンは海で行方不明になった後、法的に死亡を宣告される。5年が経ち、夫のニック(ディーン・マーティン)は再婚し、新妻のビアンカ(シド・チャリシー)と新婚旅行に出かける。その間、実は島に流れ着いていたエレンが助け出される。エレンはウソの外国なまりで話し、イングリッド・チックと名乗り家政婦としてニックの家に住みこむ。だがニックは妻が2人いると知って悩み、さらに島に漂着したときエレンは男と一緒で、お互いをアダムとイブと呼びあっていたとわかると、ますます思い悩む。夫の嫉妬をそらすため、エレンは草食系の靴のセールスマン(ウォリー・コックス)を雇って「アダム」の振りをさせる。

 古い契約(スター・システム)のおかげで、フォックスは10万ドルの報酬でモンローをキャストに迎える。モンローはこれを最後にやっとスタジオと縁が切れるため、双方円満な契約に思われた。だがフォックスは、主演女優が私生活で問題をこじらせているのを承知していた。別れた夫、劇作家のアーサー・ミラーが再婚したばかりで、新妻(ミラーとモンローが名を連ねた『荒馬と女』(1961)の撮影現場付き写真家)が妊娠した。撮影開始2週間前の4月11日、まさに本作の原題の通り“Something’s Got to Give(このままではいけない)”ことが起きる。プロデューサーのヘンリー・T・ウェンステインは、バルビツレート(鎮静薬)の過剰摂取により前後不覚のモンローを発見した。ウェインステインは、即座にフォックスに撮影延期を申し入れるがこれを会社は却下した。

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映画は中止すべきだ、モンローはあきらかに仕事のできる状態ではない

画像テキスト
ジョージ・キューカー(左)とモンロー。右はイヴ・モンタン『恋をしましょう』の撮影現場にて Bettmann / Getty Images

 1985年に出版されたアンソニー・サマーズによる伝記「マリリン・モンローの真実」(扶桑社)では、この映画の撮影に青信号を出したフォックスの胸算用について、こう記述している。「20世紀フォックスで会議が持たれた。あるエグゼクティブ(ウェインステイン)が、映画は中止すべきだ、マリリンはあきらかに仕事のできる状態ではないと発言した。『もし彼女が心臓発作を起こせば、キャンセルするはずだ。過剰摂取でいつ死んでもおかしくないとなれば、何の違いがある?』『それはだな』ある同僚が返事をした。『もし心臓発作を起こしても、保険はおりない。その問題は存在しないんだ。医学的に、彼女は完璧に健康体だ』」

 実のところ、モンローは健康とはほど遠かった。様々な慢性疾患に悩み、副鼻腔炎や、後にウェインステインが「演技への底知れない恐怖」と形容した深刻な不安を抱えていた。撮影直前の脚本変更は、不安をあおるばかりだった。  加えて、被害妄想をこじらせていく。モンローに送られてきた脚本のページには、よくわからないセリフに×印を1つ、嫌いなセリフには×印を2つつけるよう指示されていた。アルコールと鎮痛剤で頭がもうろうとしていたモンローには、自分が裏切られるサインに映った。ブラにパッドを当て、髪を金髪に染めたシド・チャリシーが、人気を奪いにきているという考えにとりつかれる。すらりとした手足の共演者は、明るいブラウンの髪になると保証しても、モンローの気は収まらない。「無意識に金髪にしたがってるわ」と言い張った。スタジオは彼女の意を汲み、主婦役を演じる40代の女優を黒髪にしさえした。後釜の脚本家ウォルター・バーンスタインも、モンローの夫役ディーン・マーティンがもうひとりの女性に少しでも惹かれているようにとれるセリフは、削除するように指示された。

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不安定なスター女優は、ジョン・F・ケネディ大統領の誕生日祝賀会へ向かった

 撮影は、1962年4月23日・月曜日に始まった。モンローはすぐさま病欠の連絡を寄こし、1週間現場に現れなかった。その後はときたま顔を出した。5月7日、20世紀フォックスは撮影を見合わせる決断をする。3日後、モンローの拠り所だったハリウッドの精神科医ラルフ・グリーンソンは、妻と義理の母に落ちあうためヨーロッパに出発した。

 モンローの人生における最も奇妙な出来事の1つは、この頃に起きた。デニス・ホッパーのような輩が集まったハリウッドヒルズのパーティーで、モンローは当時、ハーバード大学の研究者にしてLSDの第一人者だったティモシー・リアリーのもとへ直行する。彼女は当時流行った新しいドラッグを試してみたいとせっついた。リアリーによればこれは逆で、モンローが彼にクアールード(鎮痛剤)を押しつけたという。薬が効いて、リアリーはすぐに寝入った。翌日2人は再び顔を会わせ、今度はリアリーがモンローに「非常に少量の麻薬」を与えた。すでに混乱し、薬づけ状態のスターに与えた影響は、推して知るべしだった。

マリリン・モンロー
'Happy Birthday' to Presidentを歌うモンロー Bettmann / Getty Images

 5月14日・月曜日、撮影が再開。モンローも仕事をしたが、その週の木曜日の昼休みにニューヨークへ向かった。マディソン・スクエア・ガーデンで開かれるジョン・F・ケネディ大統領の誕生日祝賀会にて「ハッピー・バースデー」を歌う準備のためだ。この件を前もって知らされたウェンステインは撮影前に許可を出していたものの、不安定なスター女優を危惧し直前になって反対した。そして、モンローが大々的に公の場に姿を見せたのは、これが最後となった。

後編【1962年8月5日・日曜日——マリリン・モンロー死去】に続く。

Original Text by ロビン・アスキュー/翻訳協力:有澤真庭 構成:今祥枝

「The Greatest Movies You'll Never See: Unseen Masterpieces by the World's Greatest Directors」より

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