沼影市民プール (2025):映画短評
ライター2人の平均評価: 4.5
気づけば「受容」へと追い込まれてしまう無力感について
ドキュメンタリーとフィクションを独自に往還する鬼才・太田信吾監督の最新作。市民プールが閉鎖へ向かう49日間を、E・キューブラー・ロスの「死の受容のプロセス」になぞらえた構成が秀逸。否認・怒り・取引・抑うつ・受容の五段階が、いまの日本社会に蔓延する無力感と重なり合う。理不尽な政策がまかり通る構造――「決まったから決まった」というトートロジーが支配する現実を象徴的に照射する。
同時に「撮れない現実」をどう映画のフレームへ迎え入れるかという今日的な課題に、監督はフィクションの挿入で応答する。賛否は必至だが、記録の限界を越えようとする試みは『ヒンド・ラジャブの声』が提示した方法論とも響き合うものだ。
再開発問題だけでなく、ドキュメンタリーの手法も鋭く問う
50年も人々のオアシスだった広大な公共プールが無惨にも取り壊される。その映像に、いたたまれない感情に襲われる。しかも「急いで壊す必要がなかった」理由が浮かび上がり、“無情”感はさらに増すことに。
メイン部分は、いかにプールが愛されていたかという光景。特大&曲線のウォータースライダー、青の美しさに魅せられながら、このプールがゲイの出会いの場だった事実にも“真摯”に向き合い、記録性も高い。
そして本作は、ある部分に「演出」が施される。すべてそこで起こったことと受け取る人には、驚愕の瞬間でもあり、どこなのか観ればわかる。「演出」によって「事実」を伝えるという、ドキュメンタリーの目的を力強く達成した。























