さよならはスローボールで (2024):映画短評
ライター2人の平均評価: 4.5
“透明ランナー”の如き共同幻想が立ち上がってくる
まさか今時、こんなにも偏愛してしまう「THE AMERICA」な作品と出会えるとは! おっさんたちが程なく取り壊される球場で、最後の草野球をするだけの映画。試合中の会話もプレイ内容もグダグダだが、新星カーソン・ランド監督は全くユルくは撮っていない。むしろ考え抜かれた構図とカット割り、リズムで以って攻めてゆく。
子供の頃、草野球には“透明ランナー”が付き物だった。姿形は見えないのに、そのグラウンドにいる全員が共有する架空の走者だ。ここに立ち上がってくるのは常軌を逸したベースボールであり、透明ランナーの如き共同幻想。考察を促すのではなく、各々自分なりの感慨に耽ることが出来るナイスなゲームである。
都市と人間の関係性、居場所の価値を問い直す
アンチドラマ的野球映画! 舞台は90年代の米郊外、取り壊しが決まった地元球場でのラストゲーム。カーソン・ランド監督は状況そのものに焦点を当てる語り口を貫く。一見、普通のおっさん達が息を切らしながら草野球にユルく興じるだけ。劇中にはワイズマンという偉大なアイコンを声優として配し、従来的な物語=システムへの回収を拒む姿勢が鮮明だ。
だが、その「何も起こらない」時間こそが、彼らにとってのサードプレイス――家庭でも職場でもない心の拠り所であり、地域コミュニティの象徴だ。再開発によって居場所が失われていく様子は、街の映画館やレコード店が消えていく風景とも重なり、静かな喪失感を観る者にじんわりと届ける。





















