新凱旋門物語 (2025):映画短評
ライター2人の平均評価: 4
時代を経て分かる名建築の真価
名声を浴びることなくこの世を去った建築家に光を当てた愛ある作品であると同時に、極めて政治的な国家的建築プロジェクトにおいて、信念を貫くことの難しさをイヤという見せつける。その建築家と行政の狭間で右往左往する官僚役をグザヴィエ・ドランが演じ、しかも良い味を出してしまっているところも嬉しいやら切ないやら。本作はロランス・コセ著の史実を元にした小説の映画化で、技術の進化が’80年当時の建築現場の再現を可能にした。日本でも公共建築コンペの舞台裏を描いた平松剛の名著「磯崎新の『都庁』」があるが、本作のように実名で思惑渦巻く世界を映像化出来るか....。史実を検証するという意味においても価値ある作品だ。
こんなにビターな「物語」だとは
1980年代、ミッテラン政権下で建てられた新凱旋門。このフランスの記念碑を、無名のデンマーク人オットーが設計する事実のねじれがまず面白い。だが舞台裏の混乱は、個の理想が国家プロジェクトに摩耗していく過程を示し、創造の純粋性が政治と産業に侵食される様を精密に描く。
巨大なキューブという超大作のヴィジョンを譲らぬ完璧主義は、官僚の現実主義と衝突し、オットーは孤立に沈む。妥協の積層は映画制作の構造とも重なる。シュビロン役のX・ドランは軽妙な存在感を放つが、内には別の感情が渦巻いていたはずだ。誰も悪人ではないのに魂は搾取される――そのすれ違いの痛みこそ、作家とシステムの永遠の課題である。





















