ルノワール (2025):映画短評
ルノワール (2025)
ライター2人の平均評価: 4
11歳は、純心でもなく、単純でもない
11歳の気持ちは、純心でもなく、単純でもない。しかし大人とまったく同じというわけでもない。1980年代の夏、11歳のフキの毎日が、そのことを思い出させる。映画は、フキの気持ちを直接語らせることはせず、ただ彼女の行為を静かに追っていく。11歳の思いが生々しく伝わってくるのは、この映画が監督・脚本の早川千絵自身の思い出を原点に撮られているからか。
自転車を止めて見る夕焼けの空、壁に飾った額にあたって反射する光、初めて乗る電車の窓から見える雲。ふとスクリーンに広がるそうした光景に、言われなくハッと胸をつかまれるのは、子供の頃に目にしたものの記憶とどこかで繋がっているからだろうか。
11歳の気持ちを表現するうえで、映画としての極点
父の重病や、母の事情など複雑な状況に対し、11歳の抱く感覚はどのようなものか。特に繊細に、時に大胆に、あらゆる感情があざとくなく深部まで伝わってくるのは、演じた鈴木唯の天性の才能ゆえか。演技とは、その人物を素直に生きることだと改めて知らされる。あえて棒読みにするシーンなど対応力にも脱帽。あの河合優実を相手に引けを取らない。
ネットが存在しない時代ならではの危ういエピソードが物語にうまく嵌め込まれ、特定の世代には心ざわめくノスタルジーを喚起し、妄想や幻想と思われる描写もうまく機能している。力強いメッセージが届くというより、映画的な歓び、切なさと温かさが混在する心地よいムードに浸ってしまう一作。