我来たり、我見たり、我勝利せり (2024):映画短評
ライター4人の平均評価: 4
資本主義がモンスターを生む笑えない現実
金持ちが弱者を狩るマンハント映画はよくあるが、こんな見せ方があったか……と目からウロコ。
なにしろ、マンハンターの主人公は家では家族との絆を大切にしており、人当たりもいい。マンハントする際もサディスティックな表情は見せず、スッと狩ったら執事とともにサッと去っていく。この軽やかさがブラックユーモアとして機能する。
冒頭の一文「誰が私を止めるのか? それが問題だ」は、誰にも止められない富裕な権力者の暴走を言い表しているかのよう。日本を見ても、世界を見まわしても、これは笑いごとではない。本作のブラックユーモアはそれほどまでにキツい。
特権階級の罪を見過ごす社会の行く先を描く戦慄の不条理劇
若くして巨万の富を築いた天才的な大物実業家。家族や友人を大切にする彼の趣味は「狩り」だが、その獲物は動物ではなく人間だった…というお話。己の特権を誇示するかのごとく、下々の庶民を無差別に射殺していく上級国民。大した隠蔽工作もしないため、警察もマスコミも政治家もみんな彼が犯人だと薄々気づいているが誰も手を出さない。なぜなら、彼がいなければ経済が回らないから。金があれば権力があれば才能があれば、社会に貢献しているのだから何をしても許されるのか?そうした風潮の行く先に警鐘を鳴らす寓話的な不条理劇。日本でも一部の権力者の不正が追及されなくなって久しいだけに、絵空事とは言い切れない怖さを感じる。
美しい映像が、忌まわしい世界を描き出す
どこまでも光に満ちた明るい色調、軽やかなクラシック音楽、それらを伴って展開する美しく端正な映像と、その映像で描かれる人々の行為のおぞましさ。その対比が強烈。そのギャップの大きさと、映像の硬質な質感は、舞台がヨーロッパのせいもあり、『関心領域』を連想させたりもする。
しかも中心人物は成人ではなく、富裕な一家の13歳の少女。彼女の視点と、彼女のナレーションで描かれるところがインパクト大。富裕層はやりたい放題に行動し、周囲もそれに迎合し、娘は父のやり方を手本に実践していく。今、世界中で起きていることを戯画化したストレートな風刺劇に、笑いも強張り、ただ画面を直視し続けるしかない。
ブルジョワジーの秘かで邪悪な愉しみ
もはや現行の資本主義システムは末期的である――という危機感はトランプ台頭以降、ガチで切羽詰まったものになり、古くはブニュエルらが描いていた富裕層戯画はいまや現代映画のひとつの潮流だ。そこに属する本作はアイン・ランドの引用から始まり、完璧な設計のブラックコメディ。帝王学を明るく実践する投資家&ハッピーファミリーの肖像。妻が人権弁護士との設定など、リベラル派セレブへの嫌味も利かせており強烈!
いくら極端な設定に見えても、経済覇者の治外法権ぶりは“本当のこと”。ピケティの言う世襲制資本主義をホラー的に体現する娘パウラ役の少女に参照作として観せたのは、ハネケ初期の傑作『ベニーズ・ビデオ』だという。






















