略歴: 文筆稼業。1963年東京都生まれ。「キネマ旬報」「クイック・ジャパン」「DVD&動画配信でーた」「シネマスクエア」などで執筆中。近著(編著・執筆協力)に、『伝説の映画美術監督たち×種田陽平』(スペースシャワーブックス)、『寅さん語録』(ぴあ)、『冒険監督』(ぱる出版)など。
近況: またもやボチボチと。よろしくお願いいたします。
2022年6月19日に現職区長を僅差で破って当選、杉並区初の女性区長(岸本聡子)が誕生するまでの赤裸々な経緯を追いかけた選挙ドキュメンタリーだが、これ、マーベルやDC、アメコミヒーロー映画好きな人も観たほうがいい。杉並区議会は以降、彼女の賛同者たちも出馬して当選し、リアルMCUみたいな様相を呈しているのだから。
しかしそのユニバースの形成は絶対ではなく、支える住民たち、主権者の舵取り次第。双方が日々、琢磨しなければ成立しない茨の道でもある。当事者、杉並区民のペヤンヌマキの初監督映画。主宰する演劇公演では様々なアプローチて?女の生態・実態をジワジワと炙り出していたが、視野を広げた最新形だ。
初めに。ヒロインは姿を現わすと、いきなり橋から身を投げる。そして以後、折々のシチュエーションにて“落下”が象徴的な楔の描写となり、ドラマが大きく動いてゆく(その企てを締め括るように、或るキャラクターがボールを手放すや、ストンと地面に落ちる絶妙なタイミングの気持ちよさよ!)。
エマ・ストーン扮する再生ヒロイン(人造人間)は、一貫して“セルフプレジャー”を追求しており、それが自由意志をめぐる試行錯誤と、飽くなき冒険へと繋がってゆく。映画が与えてくる衝撃、質感としてはキューブリックの『時計じかけのオレンジ』(71)を並べたい。観ている間中、グワングワンと揺さぶられた脳が何重にも反転を繰り返すのだ。
シリーズの導入部として充実した作劇。漫画の世界をいかに3次元の実写へ変換するかは、日本映画がずーっと向き合っているテーマだが、本作は一つの解を見せている。なかなかにエグい原作にも若山富三郎、勝新太郎という兄弟リスペクトがあったが、まるで往時の「勝プロ」が手がけたような、常軌を逸したエキセントリックな描写に回帰しているのである。
事実、かつて「東宝配給」「勝プロ製作」という提携が劇画ブームと連動し、実写版『子連れ狼』シリーズ(72~74)などで気を吐いていた。不死身の杉元役、主演の山?賢人や脱獄王・白石役の矢本悠馬、アイヌの少女アシ?パ役の山田杏奈まで、そんな「勝プロ」娯楽路線の匂いがする。
服を着る。着替える――全篇にわたって何度も行われるこの行為が、社会上の性別に違和感を抱く8歳の主人公の揺れる心象と同期してゆく。背景には2018年、舞台のバスク地方で性自認由来の痛ましい事件が起こっており、それが初の長編劇映画に挑んだソラグレン監督の機軸になっている。
とはいえ主張強めの作風とは無縁で、主人公とその母親と祖母、さらには養蜂場を営む叔母との関係、そして「呼び名」をめぐる物語を、とろ火でじっくり煮詰めるスタンスだ。劇中、レコードから流れるのはスペインの夫婦ディオ、セルヒオとエスティバリスの1973年リリースの「Búscame」で、「私を探し見つけて」という歌詞内容も含めて効果的。
そこに描き出されてゆく、「平山という名の男が日々をシンプルに愛でる姿」にはほとんど共感を覚えない。東京の街の捉え方もファンタジー過ぎるだろう。だが、終始惹きつけられるのだ。監督ヴィム・ヴェンダースの夢想する“ランドスケープの映画”として。こんな絵空事があってもいい。
本作はまた、どこを切っても役所広司のアイドル映画、でもある。ヴェンダースは彼を通してリスペクトする小津安二郎、並びに小津映画の代表的人物・平山を偶像幻視しているのだから。そして全篇、役所広司の特性である「クレショフ効果」が及んでおり、その視線の先に(好むと好まざるとにかかわらず)観客各々の“世界の見え方”が現出するのであった。